老眼の夢

 こんな夢を見た。

 久しぶりに母校の大学に出向いてみると、ベネトンの派手なトレーナーを着た若い男が、静かな声で今日から後期が始まると言う。ツヤツヤした頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。楽しい夏休みを謳歌したに違いない。しかし男は静かな声で、今日から後期が始まるとはっきり言った。自分もたしかに、今日から後期が始まるなと思った。そこで、そうかい、もう後期が始まるのかい、と男を見上げるように聞いてみた。

 始まるよ、と言いながら、男はばっと時間割表を広げた。小さな時で、1週間の講義の時間割がびっしりと書き込まれているA2版ほどの紙面は、ただ一面に真黒であった。その真黒な文字の渦の中に、自分は溺れてしまいそうになった。

 現代の大学では、講義の時間割やシラバスはWEBで公開されていると聞いている。しかし、この大学では未だにアナクロな印刷物でしか配布されていないらしい。大学内で実施されている全ての講義が網羅されていて、圧倒的な情報量である。その中から、自分が履修すべき科目を目視で見つけ出すことはほとんど不可能に思われた。どうしてWEBで公開して、検索できるようにしていないのかと憤りも感じた。

 時間割表を一心不乱にむさぼり読んでいる、この若い男の名前は思い出せないが、確かに教養部時代のクラスメイトのはずである。今さら名前を聞くのも失礼な気がしたので、適当に話を合わせつつ、仲のいい振りをした。この男が言うには、後期の履修登録の締切は今日いっぱいだという。それをすぎると、今期の単位を取得することはできない。僕はずいぶん前に大学を卒業したはずなのに、今ここで履修登録をしなくてはならないと焦りだした。

 そもそも、僕は時間割表すら入手していなかった。男に聞くと、教養部の学務事務窓口に行けばもらえるらしい。教養部は随分前に廃止になって、建物も真新しく改装されたはずなのに、そんな窓口があるとは思えなかった。しかし、そんな疑問を口にすることもなく、男に案内されるまま窓口に向かった。

 はたして、教養部の学務事務窓口は現存していた。今にも朽ち果てそうな小さなカウンターで、周囲からはカビとアンモニアの混じったような臭気が漂っている。まさに、僕の知っているH大の教養部だった。後期の単位をまるまる未習得で、留年してしまっては親に合わせる顔がない。早速、窓口で時間割表と履修届を受け取って、受講計画を立てることにした。

 A2版にびっしりと書き込まれている時間割表を手元で広げてみると、やはり真黒でクラクラした。文字が全てかすんだり、にじんだりしている。文字をよく見ることができない。

 そこへ遥かの上から、はらりと銀杏の葉が落ちたので、時間割表を振るって払い落とした。紙面を遠くに離す拍子に、目と文字との距離が開き、文字の一つ一つがくっきりと見えた。

「20年はもう来ていたんだな。老眼だな」とこの時はじめて気がついた。

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