Terai, S. さんの「未明のプログラミング日記」に書かれている”社会的現実の作り方シリーズ”が面白い。
「社会的現実の作り方」
相手チームの実力の問題を、”チーム青森”の好不調の問題と捉える誤解。ダークホースの”駒大苫小牧”を、「真の王者」だとみなす誤解。
「社会的現実の作り方2」
ニュース番組のアシスタントが「カーリングの選手層は厚い」と発言したが、日本選手権のチーム数は男女ともに9チームのみで、ほとんどが北海道と長野のチーム。
「社会的現実の作り方3」
「空前のカーリングブーム」と言われる割に、男子の試合はほとんど報道されない。
「社会的現実の作り方4」
WBCの日米戦における審判の誤審について。本当に人々は怒っているのか?
いずれも”例題”として、スポーツに関する最近の話題が取り上げているが、「現実だと思っていることが、実は”社会的に作り出された現実”(虚構)である可能性がある。そして、人々は自分でそれに気づきにくい」という本質的なメッセージを上手く伝えている。興味深い。
とはいえ、僕は Terai, S. さんと同じ講座で教育を受け研究をしてきた人間なので、この考え方に馴染んでいるだけで、それに興味の無い人は「ふ~ん」で終わってしまうかもしれないけれど。
1994年、僕はまだ大学1年生で、Terai, S. さんらの講座には所属していなかったし、そんな考え方があるとは知らなかった。漫画以外の本はあまり読まなかったし、自分で何か(絵、音楽、文章)を表現することに興味を持っていなかった。あとついでに、マスコミで言われていることは 100% 正しいと信じていたし、みんなに意見を言って良い立場にあるのは選ばれた人々(大学の先生とか作家とか)のみだと思っていたし、その立場を手に入れるにも出版するにも莫大な金がかかるもんだと思っていたし。
そんな1994年、僕は初めて World Wide Web (WWW) というものを知った。あの時のカルチャーショックは今でも忘れないし、少なくとも生まれてこの方、あの時以上のショックを受けたことは無い。
情報処理の講師が、「WWWでは、誰でも世界中に向けて情報発信ができます」との説明とともに、プロジェクタで WWW のデモを見せてくれた。
そこに大写しになったのは、当時北大の農学部にいた女子学生が、マウスを使って描いたヘタウマな “T2ファージ” と “みかんの腐食” の絵だった。
【記憶に基づいた再現画】
なんてバカなことをしているんだろうと思ったのはほんの少しで、それよりも大きな憧れを持った。
偉い大学の先生じゃなくても人に何かを伝えることができるんだ。たった数十万(大学生にしてみれば大金だが)のお金があれば、全世界に何かを伝えることができるんだ。そこに出ている情報が正しいかどうか、別の人の意見を WWW で調べれば裏づけが取れるんだ。などなど。
あれから10年あまり。いまだに WWW を見たときの興奮は忘れていないし、完全に自分の生活の一部になった。
その間、空前の「インターネットブーム」が巻き起こった。こればっかりは「作られた社会的現実」ではないと、僕は信じている。
そして近年は「ブログブーム」らしい。具体例を探すのは面倒なので割愛するが、やれ「ブログで趣味の仲間と交流」だの「ブログをビジネスに活かして成功」だの言われているのをしょっちゅう見かける。
自分でも「ブログ」をやっているのであまり大きなことは言えないかもしれないが、ブログってそんなにスゲーか?単なる WWW の一アプリケーションに過ぎないと思うのだが。すごいのは、WWW (もしくは、環境としてのインターネット)であって、ブログなんて屁みたいなものだと思うが。
「じゃあ、お前がイチから作ってみろ」と言われても、残念ながら作るのは無理だが、技術的にもそんなに難しいことやってるわけではないし。
我々人間が「ブログ」で行っている活動は、きっと「ブログ」がなくても十分可能だ。
それほど、我々の生活に大きなインパクトを与えているとは思わない。
ただ、「ブログ」がもたらす変化に関して、僕が少なからず「なるほどな」と思ったのは、毎度おなじみの僕のオピニオンリーダーのMagMell (by Felice) の日記だ。2005年9月20日の日記で、「ブログは、個別のコンテンツごとに切り取られ、コンテンツ間の連続性が断続されてしまう傾向にある。そのため、書き手の人格そのものを読み手に理解させることが困難」といった趣旨のことを書いている(そして彼女は、基本的にブログではなく”日記”スタイル)。
その善悪は別問題だが、現象としてはその通りだと思う。
“未婚なら、僕は絶対ネットナンパしていた” と言われているような言われていないような、mimoza さんの「続けたい!」に、本日「迷いながらエントリー」という記事が掲載されている。
僕も詳しいことは調べていない(申し訳ないが、その元ネタ自体にはまったく興味が無い)が、かなりの影響力を持つある有名ブログの筆者が、10年ほど前に大事件を起こしたアノ宗教団体の元信者であることがわかり、賛否両論が持ち上がっているらしい。そのブログは、日本の政治問題に深く関わりがあるもので、そんなところに「元信者」をのさばらせていいのかという弾劾さわぎになってるらしい(ちゃんと調べてないので、自信なし)。
「そのブログは政治問題を扱っている」という僕の理解が正しいのならば、評価されるべきは書き手ではなく、その意見の中身だと思う。だから、別に書き手の経歴なんてどうでもよいのではないかと思ってしまう。個別の意見を自分の意見と照らし合わせて、善し悪しを判断すべき問題だからだ。
仮にそのブログの書き手が、「聖人君主であった」という経歴の持ち主だったなら、どんなトンデモない意見でも賛成するのだろうか?神にも匹敵するような全知全能の政策論の主張があったとき、その書き手が「元テロリストであった」といってその意見を完全に無視するのだろうか?
MagMellの日記で言及されているように「個別のコンテンツ」と「書き手の人格」は分けて捉え、コンテンツの性質によってどちらを尊重すべきか変えるべきだと思う。「人と人との情緒的交流」に重きを置くなら書き手の人格を、「事実の報道や客観的意見の主張」に重きを置くなら個別のコンテンツに対する評価だけでよいはずだ。
「続けたい!」の記事の例の場合、どちらに重きを置くべきか決めないでてんでばらばら議論するから収拾がつかなくなってるんだと思う。
そして混迷したまま、声の大きい方(賛同者の多い方)の意見が「社会的現実」として人々の間に浸透していくんだろうな、と思った。
僕自身ちゃんとできてるか自信が無いし、人々にとっても一朝一夕に身につくことでは無いけれど、きちんと本質を見極める能力を身に着けないと、WWW の夢の世界は崩壊すると思う。
おまけに、民主的社会も。