あまり大きな声では言えないが、『デラべっぴん』を卒業した後、僕がもっともお世話になった雑誌が『インターネットマガジン』だろう。
インターネットとの出会い
大学1年生の後期の授業だった。季節は初秋だったはずだ。
情報処理の授業で、モザイクによるウェブ・ブラウジングのデモを見た。
(“モザイク”って、知らない人が聞くと卑猥な想像をするかもしれないけれど、Internet Exploler や Firefox のご先祖様だよ)。
そして、
「こりゃすげぇ。時代が変わる。」
と思った。
講義が終わるや否や、自宅の電話機にかじりついて実家に電話した(当時、移動体電話なんてほとんど誰も持っていなかった)。
父親も80年代初頭から、自分で仕事用のデータベースなんかを行番号BASICでスクラッチ・ビルドするような人だった。
「オトウサン、インターネットという、コンピュータ同士を繋げるすごい仕組みがあるらしいのです。これは世界を変えると思います。それを体験するために、どうしてもパソコンが欲しいのです。買ってください」
と、誕生日でもクリスマスでもないし、入学祝にしては既にかなり遅すぎるし、ていうか「お前は1年浪人させてやったし、札幌に一人暮らしもさせてやるんだから、入学祝など無い」とか言われていたんだけれど、とにかく頼み込んだ。
説得は比較的容易に成功し、NEC の玩具みたいなパソコン (PC-9821CX CanBe)を買ってもらった。
50万円位したと思う。
今、自分では買えないし、親にも買ってくれとはよう言わん。
幸せな学生生活だった。
#当時の彼女には、羨望と軽蔑の混じった目で見られた。
プロバイダは、当時良い意味でも悪い意味でも評判を集めていた Bekkoame にした。
今では当たり前の定額料金を提供していたのは、ここくらいだったので評判がよかった。
ただし、定額料金のせいでユーザーが殺到して、ほぼパンク状態で接続状況は悪かった。
電話代(俗に言う「みかか代」)も従量制が当たり前で、ちょっとインターネットを使いすぎると、余裕で請求書の桁が1つ上がった。びびった。せめて、先頭の数字が2にならないようにとだけ気をつけていた。テレホーダイ開始前だった。
でも、50万円もポンッと出してもらった負い目があったので、通信料金はバイトとかして自分でやりくりした(もちろん、仕送りはもらっていたので、あまり威張れないが)。
外国のサイトにつないで、エロい写真とかも見放題だった。
ただし、電話線でのダイアルアップだったので、1枚の画像をダウンロードするのに30分とか平気でかかった。
もの凄くエロい写真なんだろうと期待して30分待ったのに、出てきたのはブラとパンツをしっかり着用した写真で、もの凄くガッカリしたのもいい思い出。
エロ画像を見るだけだったら、インターネットにかかる費用を握り締めて、エロ本やアダルトビデオを買い漁った方が、なんぼ安上がりで簡便かということに気づけなかったほど、インターネットの夢に溺れすぎていた。
確かに、インターネットには夢があった。
そして、今日、その夢の多くが実現されている。
なんと幸せなことよ。
エロ静止画どころか、エロ動画だって瞬時にダウンロードできてしまう。
それが、インターネットの最大の夢かどうかは、とりあえず置いておく。
インターネットマガジン
そんな夢に、頭と胸と股間を膨らませていた1994年。
僕がインターネットに興味を持ち始めたのと時を同じくして、インプレス社から『インターネットマガジン』が創刊された。
同誌は2006年に休刊になってしまったのだが、この度、全バックナンバーがweb上で公開される運びとなった。
『インターネットマガジン』の創刊は、日本でインターネットが本格商用化された1994年で、月刊誌の形態として1994年10月号から2006年5月号まで136号を発刊してまいりました。これらに収録された記事は、日本のインターネットの1つの歴史として、資料性の高いコンテンツであると考えています。
バックナンバーをウェブ上に公開することで、より多くのインターネットユーザーに利用していただけると考えています。
一度、編集部にメールを送って、それが紙面に掲載されたことがある。
インターネット上での著作権に関する問題を、弁護士に相談して回答してもらえるというコーナー。
探したら、ちゃんとPDFファイルとして残ってる。
本文中の「あるタレント」が山瀬まみを指していることは、みなさんの想像通り。
ていうか、記憶では匿名だったと思っていたのだが、思いっきり苗字が出てる。今、画面に向かいながら赤面中。
自分のこと以外でよく覚えている記事といえば、僕が世の中でもっとも尊敬しているプログラマさんの記事。
このPDFファイルに掲載されている「Programer’s Cool Talk: 中村匡志」がその人。
当blogのタイトルにもなっている、AL-Mail を作った偉い人である。
プログラムを作ったから偉いだけじゃなくて、当時インターネット初心者だった僕にものすごく親切にしてくれた。
インターネットに繋がった当初、2,3のメールプログラムを試用していたのだけれど、なんだかどれもうまく動かなかった。各作者に質問をしたのだが、問題が解決するまで懇切丁寧に付き合ってくれたのが、AL-Mail の中村さんだった。僕のとんちんかんな質問に対しても、いつも親切だった。
その姿勢にいたく感動し、AL-Mail を使うことを決めた。
AL-Mail は生き続ける
そして、それから10年以上も AL-Mail を使って現在に至る。
僭越ながら、当blogの冠にも流用させていただいている。
AL-Mail はもう古臭いし、もっと良いメールソフトは巷にいくらでもある。
でも、僕にとって AL-Mail に象徴される”何か”は、10年経っても少しも減じてないし、この先も忘れずに心に留めておくべきものだと信じている。
「見ず知らずの人にすら親切にする」という徳のあり方教えてくれたのは、AL-Mail 作者の彼に他ならないと思っている。
自分のblogのタイトルを見直して、その教えをもう一度かみしめようと思っている冬の夜。