サイトアイコン alm-ore

「激動の時代」なんて本当にあるのか

なんかちょっと小難しい本を読んだり、誰かちょっと偉そうな人の話を聞いたり、とりあえずちょっと頭ヨサゲな文章を書こうと思ったら、ありがちなフレーズ:

現代はまさに激動の時代である。

ちょっと待てよ、と。
なんか、いつの時代でもこの文句が溢れてる。
激動時代のインフレーションじゃないか。
もうこんなフレーズ、信じないぞ。


この10年は、インターネットだの、少子高齢化だの、年金制度の崩壊だの、非正規雇用の増大だの、地球温暖化に待ったなしだの、とにかく激動の時代らしい。
その前の10年は、バブル景気だの、バブル崩壊だの、非自民政権だの、東西冷戦の崩壊だの、やっぱり激動の時代だったらしい。
そのまた10年前は、オイルショックだの、ベトナム関係のいろいろだの、あったみたいだし。
またまたその10年前は、日本の高度成長期だの、日米安保闘争だの、なんやかやだったみたいだし。
それ以上前はよく分からなくなってきたけれど、戦後復興で激動の時代はあっただろうし、第二次世界大戦で激動はあっただろうし、世界恐慌でアレだったのだろうし、第一次世界大戦で、植民地帝国、産業革命、大航海時代、活版印刷、宗教戦争、・・・とにかくいっぱいある。

むしろ、「激動ではない時代」を見つける方がよっぽど困難だ。

今度から、「現代はまさに激動の時代である。」で始まる文章とか講演とか見聞きしたら、それを真剣に受け取らないことにしてみる。
「激動の時代」というフレーズは、激しいインフレーションの渦中だ。

むしろ「現代は微動の時代である」で文章を書ける人がいたら、抱かれてもいい。
そういう意味で、今もっとも抱かれたい男は『まっとうな経済学』を書いたティム・ハーフォードである。

十九世紀の農業と二十一世紀のカプチーノ製造業の相違点を見つけるのは簡単だが、両者の類似点を指摘されるまえにみつけだすのはそう簡単ではない。経済学とは、ある意味、モデルを築く学問であり、農地やコーヒーバーの地代のように、一見複雑そうな問題の背景にある基本原則、基本パターンを明確にする学問である。

ティム・ハーフォード『まっとうな経済学』 (遠藤真美・訳) p.29

いや、もちろん、人の寿命には限りがあるから、今日の時代の変化と100年前の時代の変化を個人レベルで比較することはできず、自分が経験している時代の方をより深刻に考えるという傾向を持っていることは分かる。
だから、常に誰かがその時代を「激動の時代」と呼ぶのだろう、と。
でも、一歩を引いた巨視的な観点からよく吟味してみる必要があるだろう、と。
問題の背景にある基本パターンが本当に変化しているのかよくみようよ、と。

鼻血を出したくらいで自分は出血多量で死んでしまうのではないかと騒いでいる人を見たら滑稽に思うのと同じように、長い歴史の中で見たらたいしたことのなさそうな事件や技術革新をもって「激動」と呼ぶのは滑稽だと思わざるを得ない。

もちろん、そんな誰でもわかりきっていて、あえて何も言わないで済ませているだけなのかもしれないような事柄をわざわざ書き留める僕がもっと滑稽である可能性も否定できないけど。
そういう些細な事を考え出して、興奮して眠れなくなってしまった僕が一番滑稽な人間なんだけど。

モバイルバージョンを終了