サイトアイコン alm-ore

「クリスマス・キャロル」と「クリスマス語る」は似ている

【警告】

以下の文章には、性的な表現や反社会的と思われる表現内容が含まれています。18歳未満の方は保護者等の成人の監督のもとで閲覧した方が好ましいかもしれません。しかし、ある意味、オトナと一緒に読むほうがむしろ赤面してしまうので、読む気があるなら勝手に読めばいいと思います。

以下の文章には、ものすごく大量で回りくどい表現内容が含まれています。12歳未満の方は保護者等に絵本の読み聞かせ感覚で読んでもらった方が理解しやすいかもしれません。しかし、ある意味、お母さんの方が読んでいて恥ずかしくなってくるような内容なので、お子さんにどんなにせがまれても、お母さんは読んであげない方がいいと思います。あなたの尊厳のためにも、お子さんの健やかな成長のためにも。

もう一回言いますが、以下の文章には、ものすごく大量で回りくどい表現内容が含まれています。その上、退屈です。どうしても時間つぶしをする必要のある方以外の閲覧は推奨されません。


♪もういくつ寝ると クリスマス
♪クリスマスには 貴金属あげて
♪コーマン まぐわり 遊びましょう
♪は~やく 恋恋 クリスマス

・・・薄汚れたなぁ、俺も。

過去のクリスマスの精霊

ちょうど四半世紀前を思い出してみると、僕は8歳。まだ小学生だ。
半畳ほどもある大きなチラシを隅々まで眺めて、サンタさんに持ってきてもらうプレゼントを吟味したっけ。
サンタさんは慌てん坊らしいので、間違えたプレゼントを持ってくるかもしれない。そうならないように、判りやすい字で欲しい玩具を記した手紙を書いて、お母さん経由で送ったっけ。うちの母親も母親で、わりと忘れっぽいところがあったから、毎日学校に行く前に「本当に送ったよね?」としつこく念押ししていたり。

お母さんもちゃんと手紙を送ってくれたようで。僕の汚い字はちゃんとサンタさんに通じたようで。
朝起きたら、枕元にプレゼントが置いてあった。
どういうわけか、プレゼントは近所のニシダヤの包装紙でラッピングされていた。
「僕と同じ店でサンタさんも買い物してるんだ!」
と、親近感が沸いたり。

その次の年くらいだったろうか。
サンタ・クロースが実は2人組の男女だということがわかったのは。
せめて、彼らに明日がない「ボニーとクライド」みたいな元強盗とかならカッコ良くて興奮もしただろうに、タケオとカズコというサラリーマン&主婦だったものだから、ものすごく冷静に受け止めることができた。
そういう世の中なんだな、と。

その年から中学校を出るくらいまでだったろうか。
大体12月になると、お互いに何の感動も無く
「今年は、コレで。」
と一言伝えるだけで、自動的に12月25日に何か貰える手配はできた。
セリ市場やバザールのようなアツい駆け引きなんて無い情報交換。自分が成長するにしたがって、家庭の台所事情はわかるようになってくるし、世間のクリスマス・ギフトの相場もわかってくる。こちらからは相応なリクエストしか出さないので、拒否されることも原則的になかった。ただ、何か一方的に言うだけでよかった。
もっとワクワクするクリスマスを過ごしてきた人には想像しにくいかもしれないので例を挙げるなら、ドラマに出てくる冷めた夫婦が
夫「ただいま。メシは食ってきた。今日は疲れたし、風呂入って寝るわ」
妻「はい。吉村さんからの書類、書斎に置いておきました」
夫「ん・・・」
みたいなのってあるじゃん。アレくらいのやり取りで12月のプレゼントが決められていくわけです。

今にして思えば、お互いに何が楽しかったんだろうね。
感情は無かったけれど、合理性はすげぇあったのかも。

高校生くらいになると、「今年のクリスマスこそは彼女もできて、初体験できるかも」と淡い期待を抱くのが12月の行事となった。
しかし、それはやはり淡い期待であって、何か釈然としないものを胸に抱きながら、クリスマスの夜は毎年自宅でモソモソとフライドチキンなどを食べてた。

大学生くらいになると、「恋人は天から与えられるものではない。自ら勝ち取るものである」という事実がわかった。
盛夏を迎える前に彼女はできていたし、コンドームも日常的に使用しなくてはならない嬉しい境遇にあった。
むしろ、女の子と半年も付き合えば、そろそろエッチもめんどくせぇなぁ、なんて思ったり、思わなかったり。

でも、当時僕が住んでいたのは、札幌。
クリスマスなんて、タダでさえ街のあちこちが飾り立てられる。ましてや、そもそも異国情緒のある街並みの上、12月には真っ白に染まる街。それが札幌。
ベッドで1回戦終わって放心している30分を除けば、いやでもロマンチックな気分になってくるってものです。

当時お付合いしていた女の子は、ありがたいことに、贅沢な趣味を一切持っていない人だった。
ブランド物の華奢なバッグをうやうやしくお持ちになるくらいだったら、メーカーはおろか、原産国もどこだかよくわからないビニールのバックをガシガシ振り回すので十分だと思える人だった。

Wham! の大ヒットナンバー “Last Christmas” がテレビ・ラジオで流れまくっていた時代。
その合間を埋めるためだけに、山下達郎の「クリスマス・イブ」が流れるような時代。
一風変わった DJ だけが、そのローテーションの3回に1回の割合で John & Yoko の “Happy Xmas (War Is Over)” をかけていた時代。

“Last Christmas” って、メロディーはきれいなんだけれど、歌詞をよく調べると独りぼっちで過ごすクリスマスの歌。
去年のクリスマスは2人で楽しく過ごしたのに、捨てられてしまったという悲哀の歌。

そういううんちくを彼女に話してあげて、最後に
「ま、僕らには関係ない歌だよね」
とか言ってたはずなのに。

10年経ち、”Last Christmas” が胸に痛い12月が来るとは思ってもみなかった。

現在のクリスマスの精霊

時は2007年12月21日。
ここ数週間のことをよーく思い返してみた。

なんと、今年は1度も Wham! の “Last Christmas” を聞いていない。
そのおかげで、クリスマス直前になって浮き足立つことも無く、平穏な日々を過ごしている自分がいるのか。

それとも、そもそもクリスマスのトンチキ騒ぎに動じなくなるだけの精神力を身につけ、そのおかげで “Last Christmas” を聞いても意識にのぼらせないような心的プロセスができあがったのか。

みんながみんな、当てはまるわけではないことは理解しているが、
「聖 クリスマス」が「性 クリスマス」になったり、
「メリー・クリスマス」が「メリー・クリトリス」になったり、
「♪もういくつ寝ると・・・」で始まる替え歌を歌ったりといった、
ある意味卑猥なイベントと距離をおけるようになった自分を、今年は褒めてあげたい。

全てのカップルが当てはまるわけではないことは理解しているが、セックスの対価として貴金属が授受されなければならないという風潮はどうなのよ?

・・・あ、いや、ごめん、その風潮はぜんぜんアリ
男性のペニスに比べて、女性のヴァギナの方が希少な資源なので、ヴァギナの価格が高くなるのは経済合理性がある。
価格が高いんだから、場合によっては現金と、場合によっては高価なプレゼントと引き換えにそれを得ようとするのは、しごくまっとうだ。

おおいに貴金属とセックスを交換しなさい。
でも、性感染症には皆さん気をつけて。

もちろん、「男女の愛という崇高な営みを、金儲けの手段とみなすなどけしからん!」というお叱りをも受けちゃうかもしれない。
うん、それも一理ある。
僕も、賛成する。

賛成するので、金銭的な対価無しでセックスさせてくださる女性がいらっしゃったら、ぜひともご連絡ください。

無償の愛、万歳!

未来のクリスマスの精霊

無償の愛(アガペー)といえば、キリスト教の中心的概念のひとつだよね。
別にキリスト教にこだわらなくても、対価を求めない愛とか施しというものは、一般的に言って尊いと思うケド。

さっきwikipedia でサンタ・クロースを調べたところ、

東ローマ帝国小アジアの司教(主教)、キリスト教の教父聖ニコラウスの伝説が起源である。

「ある日ニコラウスは、貧しさのあまり、三人の娘を嫁がせることの出来ない家の存在を知った。ニコラウスは真夜中にその家を訪れ、屋根の上にある煙突から金貨を投げ入れる。このとき暖炉には靴下が下げられていたため、金貨は靴下の中に入っていたという。この金貨のおかげで娘の身売りを避けられた」という逸話が残されている。靴下の中にプレゼントを入れる風習も、ここから来ている。

だと記されていた。
尊いね。

ついでに、『ルカによる福音書』に載っているとされる「善きサマリア人」の話(これまた、wikipedia の項目からの受け売り)。

ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗たちに襲われた。強盗たちはその人の衣服をはぎ、殴りつけ、半殺しにして去って行った。

たまたまある祭司がその道を下って来た。彼を見ると、道の反対側を通って行ってしまった。
同じように一人のレビ人も、その場所に来て、彼を見ると、やはり反対側を通って行ってしまった。

ところが、旅行していたあるサマリア人が、彼のところにやって来た。
彼を見ると、哀れに思い、彼に近づき、その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやった。
彼を自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行き、世話をした。
次の日、出発するとき、銀貨2枚を宿屋の主人に渡して、言った。
「この人の世話をして欲しい。これで足りない費用があれば、わたしが戻って来たときに不足分を支払う。」

普通に読んだだけでも、司祭とレビ人が嫌なヤツで、サマリア人が善い人だということが判る。
しかし、話はそれだけで終わらなくて、司祭とレビ人が社会的地位のある人なのに対して、当時のサマリア人というのは迫害を受けている民族だったそうだ。
きっと、善きサマリア人が宿屋に残していった銀貨は、迫害されている彼がやっとのことで稼いだ金だったのだろうと想像できる。

今の世の中、特に日本では、あからさまに少数民族が迫害されているという例はあんまりない。
その代わり、国民全体が緩慢に迫害されているのかもしれない。
1日の時間の30%から50%ほどを賃金獲得のために企業に提供している現代人。
その他の時間の半分以上は睡眠に当てられる。
最後に残った時間はごくわずかで、それをやりくりして、メシ食ったり排泄したり、たまにドライブに出かけてさりげなくラブホテル街に向かって気持ちよくなったり。でもそういう活動をしながらも、常に頭の片隅では「どうやればもっと収入が増やせるか」と絶えず考えていたり。
12時間も働いているのに、まだまだ収入は足りないらしい。

ていうか、収入が足りないのはもちろんなんだけれど、そもそもお金を稼ぐこと自体が難しいんだよね。
寝てて儲かるわけじゃなくて、何らかの技能を身につけて働かなきゃいけないんだから、そもそも難しい。
そりゃあ、仕方が無い。

でも、世の中にはもっともっと難しいことがあることに、僕らは意外と気づいていない。
それに比べれば、お金を稼ぐこと(とりあえずは、最低限の生活を営む程度の収入)なんて、よっぽど簡単だ。
コンビニで、ピッピッとバーコードを読んで、おつりを間違えずに渡すことさえできれば、1時間に1000円くらい稼ぐことができるんだから。

何が難しいかって、困っている人/貧しい人に援助の手を差し伸べることほど難しいことはない。

近所に貧乏な家があったとして、3人の娘が身売りしそうだという噂を聞いたとしても、僕は煙突に1万円札を投げ込みに行くことはしないだろう(「紙幣だから燃える」とかいうトンチを言ってるんじゃないよ)。
道に、暴漢に襲われて瀕死の人がいたとしても、僕は見てみぬフリをしてしまうんじゃないかと想像している(「性別によるんじゃね?女の子だったら別でしょ?」とか言わなくていいから)。

「そんなの簡単だ」というあなた。
それならば、もう二度とこのブログを読まないと誓い、読み続けたとしたら今後かかったであろう電気代や通信費を算出(alm-oreに相当する分だけでいいです)し、その金額を何が慈善事業のために使ってください。

ちなみに、僕はそうすることができません。
そういう意味で、難しいのです。
このブログを運営するのに、大まかに計算しても電気代だけで年間2万円はかかっていると思う(コンピュータが24時間動いてるし)。
自分がブログを書くという楽しみを捨てて、どこかの困っている人にその2万円を与えることができるかというと、僕にはそれができない。
そういう意味で、難しい。

いよいよ結論である。
今年のクリスマスは、ディケンズの「クリスマス・キャロル」を読みたいと思う。
青空文庫にも収録されているので気軽に読める。

おなじみ、wikipedia のクリスマス・キャロルの項目にはこう記されている。

ディケンズは作家として成功し「豊かな者・ジェントルメンの一人」となった。彼は「かのクリスマス・キャロル」がうたうように、貧しい者に豊かさを分けることを使命とした。スクルージが辿り着いた境地もまた同様で、「クリスマスの祝い方」とは、豊かな者が貧しい者を助け、社会をよりよいものとすることである。そして「クリスマスの祝歌」こそはクリスマス・キャロルである。

エロいことをする費用の1%でも、エラいことをするのに充てることができれば。

モバイルバージョンを終了