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医療市場の是2: Felice さんに反論されたから、再反論

先日書いた医療市場の是という当方の記事に、Felice さんから反論が付いた(2008年1月3日の日記)。

話がややこしくなっていることの原因は、多くの論争がそうであるように、双方の信条の違いに根ざしたものである。
第三者にとっては、どっかのオタク2人が「ジオンの独立戦争は正当化されるか否か」くらいのどーでもいい話をしているくらいに思うかもしれないけれど、多くの論争がそうであるように、本人たちにとっては自分の信条の表明だとか、プライドだとか、本当に世の中を良くしたいという熱い思いだとか、相手を公衆の面前で罵倒したいだとか、あるかもしれないし、ないかもしれないのだが、いろいろな思いが渾然一体となって、引くに引けないものでもあるのだ。

ただでさえ、この後の話が長くなるので、余計な能書きなんて抜きにしてとっとと本題に入ればいいものを、こんな前書きをすることで自分を冷静に落ち着かせようとか、今後の議論に全く興味のない人でもここら辺まではなんとなく読んでちょっとでも笑ってもらおうとか、2人の間の論争がヒートアップし過ぎないように自主的にアイロニーをかましておこうとか、まぁ、いろいろ考えたり、考えなかったりするわけです。

では、本題。

今回の再反論で一番重要なメッセージは
「血液供給の量を増やすという問題と、供給された血液の質を高める(汚染された血液を排除する)というのは、別次元の問題なので、分離して対策を考えるべき。一緒くたにして議論することは簡単だけど、問題解決を先送りにする。なお僕自身は、前者の問題がより緊急を要すると思っている。」
ということ。

次に、自他にとって話の流れを分かりやすくするため、目次を載せておきます。(このあたり、僕がどの程度真剣に今回のケンカに乗ってるかわかるってもんよ)
「血液供給の不足を解消する方法」→ 血液供給の「量」の話。血液市場を作れば、急速に血液不足を解消できる(と信じる)
「安全な血液を得る方法」→ 集まった血液の「質」の問題。大量に血を集めようとすると、汚染された血液が集まりやすくなるというトレードオフ。「質」よりも「量」が緊急の問題ではないか。
「余計な臓器の有無」→ Felice さん、落ち着いて考え直してください。


血液供給の不足を解消する方法
Felice さんが教えてくれたデータによると、現在の医療規模を支えるためには 1000万人分の献血が必要であるが、実際の献血量は 700万人分しかないそうです。つまり、300万人分の献血が不足している。
じゃあ、その300万人分をどうやって獲得するかという問題です。

それに対する僕の回答が「市場」。血液に値段をつけて、提供者を募れば良いというアイディア。
Felice さんの主要な回答は「教育・宣伝」。献血の重要性を説いて回って、献血したがる人を増やせばいいという考え。彼女の記述によれば、少なくとも1970年代以降はこの方法が主流だそうです。

教育・宣伝による方法は、僕も悪くないアイディアだと思います。でも、それほど優れている方法だとは思わない。
教育・宣伝で献血を募った結果、今日、必要量の30%もの不足を生み出している。

その上、最近は献血者の数が減少するという結果すらもたらしている。
例えば、日本赤十字社の出している献血者数のここ5年の推移を見ると、毎年約10万人のペースで献血者が減っています(血液事業の現状 平成17年統計表(PDF)26ページ)。2001年に577万人だったのが、2005年には532万人に減り、約8%減。参考までにこの間の日本の総人口(総務省発表のエクセルデータ)を見ると、127,317千人→127,768千人と増えているのにもかかわらず。ちなみに、献血する人の年齢層をとりあえず15~64歳として、この年齢層の人口推移も見てみましょう(これまた総務省のエクセルデータから足し算した。検算どうぞ)。2000年に42,546千人から2005年に41,525千人と3%弱しか人口が減っていません。
献血可能人口は3%しか減っていないのに、実際に献血した人が8%も減ってしまったのは、教育・宣伝施策の失敗といえましょう。

「教育・宣伝を続ければ、将来きっと供給100%に近づくだろう」と信じることは簡単ですが、少なくとも上に示したデータからは、その望みが薄いことが示されています。
教育・宣伝のやり方を変えればいいのかもしれませんが、具体的にどうするんだろう?今まで40年も(きっと)手を変え品を変えやってきたのに、このパフォーマンスです。教育・宣伝の将来は明るいのだろうか?

それよりも、血液市場を作って、献血に対価を与えれば、かなり急速に献血量を増やすことができるのではないかというのが僕の意見です。
実際に効果を測定できないので、教育・宣伝と市場システムと、どちらがより多く献血者を獲得できるかは正確にはいえませんが、僕は市場システムの圧勝だと信じます。
少なくとも、無償で献血する人々は市場システムの下でも献血し続けるでしょうし、血液がお金に変わると思えば献血をし始める人が少なくない数だけ出てくるはずです。
#そして、それはFeliceさん自身が「過去には血液売買があって、多くの人が利用していた」という歴史的事実を挙げてくれている。

なお、教育・宣伝と市場システムは排他的ではないので、両方使いたければ使えばよい。ただし、「教育・宣伝だけで十分だから、市場は要らない」という結論には、どうしてもならないと思う。

もちろん、市場が万全だと主張するつもりもない。欠点もある。
しかし、少なくとも「血液の供給量を増やす」という目的を達成するために、市場システムが悪い理由はなにかあるだろうか?

次の節では、市場システムにすると汚染された血液が混入しやすくなるという問題を取り上げます。
次節で扱う問題は、本節の問題「供給量を増加させる方法」とは別の問題であることを繰り返し強調しておきます。

ただし、両者はきっとトレードオフの関係にあるのでしょう。
量を増やそうとすれば質が低下しますし、質を高く保とうと思ったら量が不足するのは、まぁ当然だと思います。
どちらを優先するかは、信条の問題で、どちらが正しいか間違っているかは、簡単に結論は出ない問題であることも指摘しておきます。
ぶっちゃけ、「自分が善いと思うほうを主張すればいい」という問題です。

安全な血液を得る方法
Felice さんの記事は、血液の売買を認めると、”汚い血液” が血液プールに流入するリスクがあると指摘しています。貧困層は感染症にかかっている可能性が高く、また貧困層ほど血液を売る傾向にあるため、結果として”汚い血液” がたくさん集まってしまうという問題です。実際に、過去の日本でもそのような危険な血液が流通して、社会問題にもなったそうです。
ゆえに、闇雲に血液を買いあさるような施策は取りやめられて、現在に至るそうです。

しかし、少なくとも、過去に問題が起きたときよりも
・社会全体の健康保険レベルが上がっている。ゆえに、そもそも”汚い血液”の持ち主が統計的に減っている
・技術革新で、検出・滅菌の効果が上がっている。ゆえに、”汚い血液”を排除しやすくなっている。
と、楽観的に考えて、血液売買を再開するわけにはいかない理由はあるのでしょうか?

少しでも汚染された血液が混入すると困る。だから、悲観的に考えるべきだ」というお叱りを受けるかもしれません。
それはその通りだと思います。
だからこそ、ちゃんと検出・滅菌の処理が行われてるんですよね。

汚染された血液を発見して取り除くという手続きは、血液がどんな方法で集められたかによらず、常に必要な手続きです。
無償の献血で集められた分にも、有償の献血で集められた分にも、同じだけこの手続きをするはずです。
例えば、ここにHIVのキャリアがいたとして、その人の献血は除去する必要があります。無償の献血だとその人のHIVが発見されやすくて、有償の献血だと発見されにくいという理性的な理由はどこにあるのだろうか?同じような手続きを使っておけば、無償/有償にかかわらずそのHIVは同じ確率で発見されるはずだから、血液プールの汚染可能性は等しい。

有償にすることで献血する人が殺到する。そのため、検査の総コストが上がってシステムが破綻するし、見落とし数も増える」と冷静な答えが返ってくるかもしれません。
それはその通りだと思います。

しかし、現在の日本の目標献血数が1000万人であり、あと300万足りないという話を思い出してください。目標を達成するためには、イヤでも300万人分の検査コストを負担しなければならないのです。そのコストや正確性が補償できないというなら、そもそも300万人増やすことができず、慢性的に血液は不足するはずです。300万人分増やしたいのならば、そのための検査・滅菌コストをきちんと準備して実施すべきです。
人が殺到しすぎて困る、例えば3000万人もの献血者がやってきたらどうするか?それは市場に任せておけば大丈夫。供給が増えれば、価格が下がるのは常識。そうすると、割に合わなくなって献血希望者は減っていくから大丈夫(ヘタすると、買値が0円になるんだろうね。また不足してきたら、徐々に価格が上がるんだろうね。規制のない自由市場だったら)。

でも、汚染された血液が割り当てられて、実際に苦しんでる人もいるんだよ。そういう人をこれ以上増やすのか?
もう、僕はこれ以上は正確な統計データを持っていないので分かりませんが、
・汚染された血液で苦しんでいる/いた人
・そもそも血液がもらえなくて苦しんでいる/いた人
のどちらが多いんでしょうか?
前者のほうがマスコミで大々的に取り上げられやすいので、そっちのほうが重大な気になっていますが、実は後者の方が重大なのではないかと個人的に思っています。
誰か、正確なデータ、もしくは推定方法を知っていたら教えてください。

以上で、主要な議論は終了です。
まとめます。
・血液供給量を増やすためには、血液を市場で取引するのが効果的
・”汚い血液” の流入は、どんな集め方をしても付いて回る問題。市場だから悪いわけではない。もっともらしい理屈をこねて問題を混交させると、大局的な判断を誤る。
・ただし、血液の量を優先するか、質を優先するかは、個人の選好の問題だから、多分統一的な結論は出ない。

余計な臓器の有無
前2節に関しては、重要で有意義な議論であると、僕は信じます。扱っている内容は気が滅入るような内容ですが、話し合うこと自体にワクワクしますし、エクスタシーも感じます。

しかし、以下の部分に関しては、僕にとって消化試合です。
個人的には「Felice さんも、つい書きすぎたんだろうな」と生暖かく見守りつつも、看過できないので反論(ていうか、売り言葉に買い言葉。でも、本人は冷静なつもりだし、Feliceさんも落ち着いて読んで下さる方だと信用している)。

頭悪いやろ? 「必要もない余分な臓器」て、そんなん盲腸くらいや。ギリギリ生きていくだけの機能しか持ってなかったらちょっと体調崩しただけで死ぬから、予備や余裕のために持っているわけで、「必要がない」わけではない。

個体の生命維持に多大な影響を与えない範囲であれば、「余計な臓器」はありうると思います。
大阪府立急性期・総合医療センター・腎臓内科の主張がどれほど正しいか僕は分かりませんが、ここでも腎臓が1個なくなっても日常生活にさほど影響は出ないと言っています。
申し訳ないですが、僕は Felice さんの主張よりも上記医療センターの所見を信用します。

実際、感動の名作『賢者の贈り物』では自分の髪の毛という「臓器」を換金している女性が出てくるし、献血だって個体の生命維持に影響を与えない範囲の「臓器提供」だし。
いやいや、それは体内で再生産可能な臓器だから、再生できない腎臓とは別だよ」とおっしゃるのは分かる。
しかし、腎臓のほか、肺や膵臓など再生不可能な臓器でも生体移植が可能と書いてある(阪大医学部からなので、ネームバリューによる信憑性は高いぞ)。つまり、再生不能でも、生命維持が可能な限り、事実上移植は可能と読めます。

ただし、あくまで、Felice さんが使っている表現のように「予備や余裕」のある臓器しか対象にならないのも事実でしょう(実際、心臓は予備がないから生体移植できない)。

もし原文の「必要がない余分な」という言い方が気に食わなかったのであれば、「必須ではない」という言い方でもマンキュー(そして僕)の主張の意味は変わりませんが、どうでしょう?
実際に生体腎移植でドナーと患者が両方生き残っているケースは多々あるので、「必須ではない臓器を提供することで、社会全体の福祉が高まる」という主張は全然間違っていないと思いますが。

もし、経済学者のマンキュー(や同書の翻訳者、もしくは腐れブロガーの木公)が「生体・医療の用語の使い方を間違えている」という温かい指摘だったならば、ありがたく受け取ります。
ただし、「頭悪いやろ?」という一文は削除していただくか、訂正していただく必要があると思います。(本人が見る可能性は万に一つもないはずなので、謝罪の必要はないと思います。僕は彼の代理人でもないですし)

「必要もない」って大言する以上、自分の腎臓をいつでも売るなりあげるなりする心の準備はできてるんやろな?
「あなたの腎臓ください、一個は必要ないでしょ」って言われたとして、自分が提供できるかどうか、どんな状況なら提供するか想像してみるべきだ。

僕はマンキューじゃないので彼の気持ちは分かりませんが、きっと売るための心の準備はできていると思いますよ。そして、どんな状況なら提供するか想像もできてると思う。
彼は経済学者なので、自分が納得するだけの対価を得るという状況において提供するのだと、簡単に予想できます。要するに、価格が釣り合えば売るし、そうじゃなければ売らない。
#対価は「カネ」が一般的だけれど、「家族の笑顔」とかいう精神的な対価も含む

こう考えるのは、きっとマンキューだけじゃないです。大多数の人がそう考えるはずです(腎臓ならば、きっと価格はものすごく高いだろうケド)。ならば、その性質を利用して、献血や臓器移植の流通量を増やすのは、それほど悪くない(最良ではないけれど、最悪でもない)方法だと信じます。
真偽の程はよく分かりませんが、臓器売買のブラック・マーケットが存在していると噂されています。そもそも臓器を売る気がある人(もしくは売らなくてはならない状況になった人)はブラック・マーケットで売っているわけです。それをオーソライズしても、今以上に不幸になる人(無理やり臓器を売買される人)はあまり増えないと思うけど。
(麻薬もブラックマーケットがあるけれど、アレは社会全体の福利厚生を高めないから、医療市場とは話が別。一部には、「麻薬市場をちゃんと作って課税すれば、政府の収入も増えるし、税金の分だけ価格が上がるから麻薬の流通量も減る」という話もあったり、なかったりだけど。税金で価格が高くなるから、金のない若者がお試しで麻薬を買うことが防げて、常習者が減るとか。)

マンキューは僕が信じるとおり経済学者としては一流だけれど、Felice さんが思うとおりヒューマニストとしては二流以下なんだろうと思う。無償で「必須ではない腎臓」を提供するような高い志をもった人ではないから。
しかし、世の中で必要なのは、一流のヒューマニストが1人増えることよりも、実際に腎臓を移植してもらって幸せな生活ができる人を1人増やすことだと思う。現状では腎臓移植を受けられる確率がものすごく低い(ドナーのなり手がいないから)ので、カネで釣ってドナーのなり手を増やせばその目的が達成される。このロジック自身はこれっぽっちも間違っていないはずです。

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