朝起きて、MagMell の Felice さんによる、映画「ミュンヘン」(スピルバーグ監督)のレビューを読んだ。
そもそも、Felice さんの映画レビューに全幅の信用を置いている当方である(例えば、ある日見に行く予定にしていた「エリザベスタウン」など、彼女がクソミソに書いていたので、見に行くのをやめたりとか)。
「ミュンヘン」に関する興味深い内容紹介の仕方と、評価の高さがあいまって、俄然興味が増した。そんなわけで、見に行った。
僕もナニコトか言ってやろうと思ったけれど、Felice さんの映画に対する造詣の深さと、文章力の前に僕なんて太刀打ちできそうも無いわけで、無駄な勝負は挑まないことにした。
だから、まともなレビューじゃなくて、夏休みの小学生の読書感想文レベルの感想文を以下に記す。
(「夏休みの小学生の読書感想文」という形容で思い出すのが、以前に Felice さんがセミの羽化の様子を写真に収めた秀逸コンテンツに対して「『小学生の夏休みの自由研究』並みのコンテンツ」とコメントをつけてしまったこと。個人的には、賛辞の言葉のつもりだったのだけれど、読みようによってはバカにしているようにも見える。ご本人さんが気を悪くしているのではないかと、ノミの脳みそくらいの大きさの気がかりがあったので、一応この場で謝罪します)
この映画、背景にあるのはパレスチナとイスラエルの民族対立である。1972年のミュンヘンオリンピックで、パレスチナ・ゲリラがイスラエルのオリンピック代表選手を拉致・殺害した事件と、その後のイスラエルの報復を描いた作品。
恥ずかしながら、当方は、ミュンヘンオリンピック事件のことを知ったのは映画館で見た「ミュンヘン」の予告編であるし、そもそもパレスチナ問題に関して知識も関心もミドリムシの細胞核の大きさほどしかもっていなかった。
ついでに言えば、今日の昼間やっていた、やしきたかじんのなんかの番組で、日本と中国の対立の問題とか、日本の国民性の問題とかを、有名なんだか無名なんだかよくわからず、まともな考えの持ち主なんだか持ち主じゃないんだかよくわからない人たちが、喧々諤々と主張をぶつけ合う姿を見ていた。そういう問題に関しても、問題の本質がなんなのかさっぱりわからず、ほとんど興味もなくボーっと聞いていたり。
さらに付け足せば、思春期に John Lennon を聞きまくったせいで、宗教も国家も地獄も財産もなくて、我々の頭の上にはたんに空があるだけという想像 (Imagine) をしていたりするわけで、心の底から民族問題なんて興味が無いわけで (John Lennon を例に挙げるなら、民族問題に造詣を深めて、その結果として Love & Peace にたどり着くのが本筋だと思うが)。
そんな僕が興味を持って見ていたのが、「お料理シーン」でした。
この映画の主人公、お料理が大好きで、腕もいいらしい。
敵か味方かわからない情報屋のボスが出てくるが、彼とも一緒に料理をすることで打ち解けあう(「美味しんぼ」かよっ!)。
料理することって何なんだろう?
今まで僕は、楽しんで料理をすることはなかったし、料理の目的も「自分の体に必要な栄養とかカロリーとか摂るため」と、フツーに醒めて考えていた。
だから、テレビのお料理番組とかグルメ情報誌とか、あとついでに、山瀬料理本を見ていても、「たかが栄養の摂取にそこまで凝るかねぇ?」とか、内心思っていたり (だから、実は「美味しんぼ」があまり好きではない)。
ただ、女の子に美味しいものを食べさせると、いろいろ会話が弾んだり、場合によってはイイコトがあったりするので、そのための情報は集めていたけれど。
ところが、この映画を見ていると、料理の”象徴的な意味”に初めて気づいた。
手料理を振舞うことは「私はあなたを保護しますよ」という、暗黙のメッセージがこめられた行為なんですね、きっと。
いいオッサンがいくつになってもお袋の味を忘れられないのは、”育ててもらった、保護してもらった”という意味をそこに重ね合わせてるからなんだろうなぁ。「オレの母親はオレのことをまったく可愛がらなかった。それこそ鬼の子のように扱った。しかし、飯は美味かった」と言っている人は見たことが無い。論理的には、料理は上手だけれど子供を虐げるという母親はいていいはずなのに、人々の言説の上にはそのような母親像は存在していない。メシの美味い母親は、たいてい子供を可愛がり、いつくしみ、保護している母親なんだ。
僕は、女の子に手料理を作ってもらうのが大好きだ。いつも食うのに困っているので助かるとか、自分で作るよりも美味いものが食えるとか、そういう問題ではない。女の子に甘えるのが大好きな当方としては、女の子が料理をするという行為を通じて、自分が「甘えている、保護されている」という気になれるからだろう。
そんなわけで、料理をすることは、食べる人のことを保護するというメッセージの送信なのだ(古今、料理にドクを盛るという話も無きにしも非ずだが、ここでそのことを突っ込んではいけない)。
主人公が、暗殺チームのメンバーと顔をあわせて最初にしたことは、料理を振舞うことだ。彼はリーダーとして、メンバーを守るという決意をそこに込めたのだろう、きっと。メンバーも彼の料理を楽しみながら、その場で主人公についていく事を決意する。そのシーンには、象徴的な意味があったのだ、きっと。
もう1つ、先にも書いたが、主人公が単身、敵か味方がわからない情報屋のアジトに連れて行かれたときのエピソード。情報屋のボスは、家族全員(ほとんどが幼い子供)の食事を作っていた。そして、家族全員を集めて一緒に食事を摂る。そして、ボスは自身のセリフでも、家族の保護を重要視していると語る。
そうなんですよ、料理には、保護をするという象徴的な意味があるんですよ。
そして、この件に関して、面白いのは「食材を渡す」という行為である。
この映画では、保護という意味を持つのは、実際に調理をすることにのみ当てはまるらしい。
主人公は、情報屋のボスに、彼らは本当に自分の味方なのかどうか、口頭で確認しようとする。
すると、ボスは是とも否とも言わず、主人公に未調理のソーセージ(食材)をお土産として渡す(映画の中では、2度出てきます)。
「食材は渡すから、料理は自分でしろ」という意味なのだと思う。つまり、映画のプロットにあわせて言うと「情報は惜しみなく渡すが、自分の身は自分で守れ」という、暗黙のメッセージなのだろう。
Felice さんは、映画のラストシーンについて、ニューヨークのツインタワー(ワールド・トレーディング・センター)の象徴的意味を読み取っていた(あのレビューを事前に読んでいなかったら、そこにツインタワーが映っていることに、僕はさっぱり気づかなかっただろう)。
それに対して僕は、イスラエルのエージェントが、主人公の手料理を断ったことの象徴的意味が気にかかった。
「もうあなたに協力(保護)してもらう必要はありません」
と、決別を通告したんですね。
さて、最後にこの映画のお薦め度合いを語っておきます。
この映画、話だけじゃなく、画面も暗いし、雨ばっかり降ってるし、暗殺計画は陰湿だし、殺人シーンは凄惨だし、ぜんぜんスカッとしません。
それに、背景状況の知識(パレスチナ問題)もある程度必要なので、敷居は高いと思います。
けれど、我々は外国人に対して広島・長崎のことを知って欲しいと思うだろうし、日中/日韓問題を知らなきゃいけないだろうし、日本を離れても、ドイツのホロコーストの問題は知っておくべきだし、ベトナム問題も現代人としては理解が必須だろうし、その他もろもろだし。
そういう、民族問題、国際問題を知り、理解を深め、今後の世の中を考える上で、必見ではないですが、見ておいて損は無いと思いました。
そうそう、「ミュンヘン」の公式サイトはこちら。