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身障者用駐車スペース: なんで腹が立つのか自分でもよくわからないこと

会社帰り、近所の回転すし屋に食事に行った。車を停めたのは、店の入り口から30mくらいの場所だった。
店の目の前には身障者用の駐車ペースが2つある。そのうちのひとつに、自動車が1台停まっていた。なんとなく気になってその車を眺めたのだが、身障者用のシールが貼ってあるでもなく、車内の装備も特別なものではない様子だった。
どうも、身障者以外の人が駐車している様子だった。

ここで、カチンと頭にくる当方。

頭にきたんだけれど、「何で俺は怒ってるの?」と怒りの理由を考え始めてよくわからなくなった。なぜそんなに腹を立てているのか。


僕自身は何も損をしてないから、怒る理由がない
今夜、その身障者用スペースに車が停まっていようがいまいが、僕はどっちみち30m離れた場所に車を停めて、同じ距離だけ歩いていたことだろう。今夜に限って、かのドライバーのせいでたくさん歩かされて損をしたということもないのだ。
そこに停めていたドライバーに対して立腹するのは筋違いな気がする。

妙にいい子ちゃんぶってる自身自身に腹を立てたのかも
2つの身障者用スペースのうち、もう1つは空いていた。店の目と鼻の先だ。そこに車を停めれば、僕はたった数m歩くだけで入店できる。見張り番がいるわけでもないし、僕がそこに車を停めたとしてもとがめられることはないだろう。労せずに得するチャンスを放棄した自分自身に腹を立てたのかもしれない。
しかし、この理由もまた違っている気がする。きっと、今夜見かけたあの車さえいなければ、僕は腹を立てていなかっただろう。身障者用スペースが2つとも空白のままなら、僕は腹を立てなかったはずだ。僕が、自分でチャンスを放棄したことに対して立腹する人間なら、あの車がいなくても立腹するはずだから、この理由は矛盾する。

義憤
社会のルールとか道徳を破る人間に対して腹を立てたのかもしれない。でも、これもあんまり当たっていない気がする。ぜんぜん威張って言うべきことではないのだが、僕の道徳観はたぶん世の平均からちょっとズレてる。
自分自身の不利益にならないのであれば、ルールでも道徳でも破られてしまっても別にいいと考えるフシが僕にはあるのだ。先にも書いたとおり、たとえそこが空いていたとしても、身障者用マークがついていない限り僕が駐車することはないだろうから、僕自身損はしていない。損はしていないのだから、僕の倫理観では許容範囲である。
(なぜ身障者用の場所に僕が駐車しないのかということに関しては、僕の倫理観と照らし合わせて説明する必要もあるところだが、本題ではないので省略)

結論
寿司を食べながら、何で腹を立ててるんだろうと自問したのだが、2皿目の納豆巻きを食べる頃にはどーでもよくなってきた。きっと、腹が減って気が立っていただけなんだろうと思う。

余談だが、それよりも腹が立つのは、無添くら寿司で全ての寿司が一律サビ抜きになってしまったことだ。いちいち、自分でわさびを塗りつけてから食べるのはめんどくさすぎる(精華町店だけなのかもしれないが)。

そして、今家に帰ってきて、あの車のことをもう一回考えてみた。
きっと、たまたま都合があって身障者を連れ出してきたのかもしれない。急なことだし、今回限りのことだから身障者用のステッカーなどを準備できなかったのだろう。
例えば僕だって、足の不自由な年寄りが僕を頼って京都に遊びにきたら、車で迎えに行って、ステッカーはないけど身障者用ロットに停めるだろう。今夜見かけた車のドライバーも同じことをしたのだろうと想像することにした。
そう思えば、腹は立たなくなった。

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