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『星を継ぐもの』ジェイムズ・P・ホーガン

この物語は、西暦2020年代が舞台のお話。
月面は、民間人が日常生活をするほどには開拓されていないが、科学者らが前線基地で月の調査をしているという設定。ちょうど、現代の南極大陸のような位置づけか。

ある日、月面で誰かの死体が発見される。
宇宙服で完全に身が包まれた人間の死体だが、身元が全く分からない。月面探査のスタッフならば、すぐに身元がわかりそうなものだが、該当者がいない。ちょっとしたミステリー仕立てで物語が動き出す。

その死体は調べれば調べるほど、謎が出てくる。
所持品に記されている文字を読むことができず、世界中のどこにも存在していない言語であった。しかし、その死体の解剖学的特徴は、地球上の人間(ホモ・サピエンス)と変わるところが全くない。

もっとも不可解なことは、死後5万年経過していると判明したことだ。
5万年前の人類といえば、およそネアンデルタール人の時代で、旧石器時代にあたる。どうしてその時代の死体が、先端的な宇宙服を着て、月面に放置されていたのか。

世界中の科学者が集まり、この死体の正体を追求するというのがこのSF小説のストーリーだ。



SF小説といえば、大宇宙を所狭しと宇宙船が飛び回り、光線銃をバンバン撃ち、強大な敵をやっつけて平和を取り戻す・・・なんてことを素朴に想像してしまうのが僕だ。
しかし『星を継ぐもの』は、ほぼその対極にある。

登場人物たちは地球の研究所にこもって、日夜、あーでもない、こーでもないと思いつく仮説を喧々諤々と言い合っているだけだ。たまに月などの宇宙に出かけて行って、現場検証をしたりすることもあるけれど、たいていは取得したデータの解釈をめぐって議論ばっかりしている。
どいつもこいつも学者バカばかりだから、甘いロマンスなんてものも一切出てこない。カネや権力の魅力に駆られて、不正を犯すようなセコい人間も出てこない。

登場人物は、誰もがみな、「真実」を求めて悪戦苦闘する。

すげー地味。「仮説→検証→証明失敗→別の仮説→・・・」という地味な作業の繰り返し。
確かに地味な展開なのだが、作者の構成力によって、これ以上ないくらいの知的アドベンチャーになってる。面白い(重要なので強調しましたよ)。


僕は、ダーウィニズム(進化論)が話の中心にあるところに興味を持って読んだ。
僕のSFに対するステレオタイプといえば「相対性理論がどーのこーの」だの「光の速度がどーのこーの」、「時空間の歪みによって、ごにょごにょ」というものなのだが、この作品については隠し味程度にしか出てこない。
その代わりに、5万年という時間の流れと、その間の霊長類の進化に関して、独特のストーリー展開が盛り込まれている。その点は、「文科系人間」の当方にとっては非常に興味深かった。

実は物語を読み進める上で、内心「おいおい、ガラパゴス諸島に関するダーウィンの有名な仕事を無視してどーすんじゃい」と突っ込みながら読んでいたのだけれど、どうも作者はそれをあえて無視して突っ走ったらしい。最後の最後に、ちゃんとその件に関する考察があって、その憎い演出に当方はしびれた。

そんなわけで、同小説の狂言回しである万能型物理学者のハント博士よりも、カタ物で偏屈な生物学者であるダンチェッカーがお気に入りな当方である。
(ここらへん、未読の人には意味不明だが、これから読む人は参考にしてほしいし、すでに読んだ人は適当にスジを思い出していただきたい)


ところで、そのダンチェッカーによって語られる「ホモ・サピエンスは闘争本能によって特徴づけられる生物である」という意見は、同小説が発表された時代(1977年)とその後の社会科学の展開(特に1990年代以降)と、どう位置づけられるのか、ちょっと考えてみたりもした。
この小説が書かれた頃は、まだ米ソの冷戦なんかも続いていて、核兵器による地球滅亡の危機が今以上に深刻に捉えられていた時期なんだろうなとは思う。そういう時代精神の反映で、人間は利己的で攻撃的であると言われるのも仕方ないと思う。ほうっておけば、野放図な闘争で自らを滅ぼす結果になるという暗い未来予想があった時代だったのだろう。

ところが、その後の歴史では冷戦が平和的に回避された。いまだに政治的・宗教的緊張は世界中でくすぶっているけれど、昔のように暴力による地球規模の人類滅亡が起きると信じている人は、現代ではあまりいない。
仮に、今日、実際にダンチェッカーが生きていたら、同じような人間観を持っていたのだろうか。

また、その仮説が本当に正しいかどうかは今後の検証を待たなければならないが、ここ15年くらいの社会科学では「人間は、意外と他人に親切である」ということが定説になっている。利己的なことにかわりはないけれど、利己的であるがゆえに平和的な行動をする(そうしなければ、自分で自分の首を絞めることが分かっている)という考え方だ。
例えば、実験経済学者の E. Fehr とか、進化心理学者の Cosmides & Toobyあたりが代表例だろうか。
一般人の日常生活レベルでも「地球環境(自分や自分の子孫、他の動植物)のために、よい行いをしましょう」という考え方はかなり浸透してきているし、実際にそういう行動をとる人も多い。

とすると、ダンチェッカーが最後に語った人間に対する洞察は、残念ながら(いや、人類にとっては幸いなことに)21世紀の現在ではハズれてるんじゃないかなぁと思う次第。

続編に「ガニメデの優しい巨人」というのがあり、当方は未読。しかし、ざっと書評を見たところ、どうも「攻撃的な地球人」のアンチテーゼとして「優しい巨人」というのが出てくるらしい。
ストーリーの展開の上で、そういった対立軸が必要になることは分かるし、これらの作品が書かれた時代精神も理解はするが、地球人をそういう風に自虐的に定義するのは、ちょっと僕の趣味に外れるかな、と思う。

いや、そういうのを抜きにしても、知的冒険として面白い小説だったし、続編も読む(重要なので強調しました)けど。すでに続編はネットで注文したし。


最後になるけれど、この小説を読むきっかけとなったのは、「『星を継ぐもの』読了 – 続けたい」の記事。
もう1年半も前の記事だけれど、最初に目にした時から同書が気になっていた。しかし、なんとなくきっかけが掴めずにそのままになっていた。
頭の片隅にはずっとあって、先日ふらっと入った駅の本屋で平積みになっているのを見かけ、ついに購入。彼女のレビュー通り、とても面白い小説だった。

今更ながら、紹介してくれたことに感謝。

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