NHKのにっぽんの現場「秋葉原・年の瀬の物語」というドキュメンタリーを見ました。
数人の”秋葉原住人”にスポットを当て、彼らの1日を追うというもの。
・電子部品店主
・CPUオーバークロッカー
・同人ソフト作者
・美少女キャラ萌えの大学生
・メイドカフェ店員
上記リストの並べ方は、僕の恣意性に基づいています。
秋葉原の大まかな文化の流れに沿っていると思います。
電子部品・電気製品の街→PC街→ソフトウェア・コンテンツ発信→メイド っつー流れ。
それぞれの文化を担っている人々になっています。
上から順に、およそ年齢順にもなっています。電子部品屋のおっちゃんは50代で、オーバークロッカーと同人作家が30代、残り2人が20代でした。
なお、リストには載せませんでしたが、番組のシメは12歳の「電子工作をする少年」でした(彼が象徴しているものは後に書こうと思います)。
さてさて、いわゆる”オタクもの”と言えば、直感的に「人付き合いが嫌いで、独りで家に閉じこもっているネクラをこき下ろす」作りになるんじゃないかと想像するわけです。
正直、番組の冒頭で美少女キャラ萌えの大学生が、ポスターだらけの自室の中で、萌え目覚ましで目を覚ますシーンを見たときに、「あちゃー」と思いました。一月の生活費が10万円と説明された後で、美少女フィギュアと抱き枕に5万円強使ってしまった時には、目頭が熱くなり正視に堪えられなくなりました。そりゃねーだろ、と。
しかし、そこは天下のNHK。話をきれいにまとめる方向へうまく誘導します。
秋葉原の住人は、世間の「ネクラ・イメージ」とは異なり、人とのコミュニケーションに渇望している。とりあえずの代替物として特定の対象にハマっているだけで、むしろ人との直接的なふれあいにやぶさかではない、と話を紡いでいきます。
たとえば、メイドエカフェで働く女子大生は、高校時代までは友達を作るのが苦手だったけれども、ふと立ち寄ったメイドカフェでの暖かいコミュニケーション(店員が親切、見ず知らずの客同士が気軽に話し合う)の経験に、自分の居場所を見つけるとか。
電子部品屋の店主が、学校の工作の部品を買いにきた親子連れとの質問・回答を嬉しそうにこなしていたり。
件の美少女萌え青年は家庭が不幸で自殺も考えていたけれど、ある日出会った2次元キャラに癒された。いつか自分もそういった作品の作り手になって、世の中の人々へ救いの手を差し伸べたいとか。
うむ、見事なお涙頂戴テクニック。
むしろ、明け透けな展開に、ちょっと興ざめし始めたり。
しかし、最後に出てきた「電子工作をする少年」という隠し玉には、うまくノセられてしまいました。
先の店主のいる電子部品屋にちょくちょく買いに来る少年だそうで。
取材への受け答えを見ていると、12歳にしては妙に落ち着き払っていて可愛げはないのですが(クラスに一人くらいはいたよね、こういう”とっちゃん坊や”。むしろ、僕がそういうタイプだったけれど)。
けれども、現在の秋葉原のいわゆる”浮ついた雰囲気”とは一線を画し、昔ながらの電子工作を一生懸命行っている姿にはちょっと心打たれました。
無表情に発光ダイオードをハンダ付けしながらも、「こういう小さな電子部品は宇宙ステーションにも使われてる」とか言ってるし。
「ああ、君は今はチマチマと10cm四方のボードでネオンサインなんて作ってるけれど、その先には広大な世界が見えてるのね。おじちゃん、君のようなビッグな夢を忘れて久しいよ。」
と、ちょっぴり恥ずかしくなってしまいました。
僕の自省はさておき、今回の番組は彼の電子工作に全てを象徴させようとしたんだと思った。
「一つ一つは小さな電子部品でも、それが集まると大きな機械になる」という構造が、秋葉原という街にもあるのだ、と。
「一人一人は点でバラバラなオタクでも、彼らの相互作用が大きなうねりとなって新たな文化が生まれる」っつー話がしたかったんだろうな。
まぁ、当たり前といえば当たり前なメッセージだけれども、オタクの街の風景にそれを投射した制作者のレトリックには感心した。
ちなみに、番組タイトルには「年の瀬の物語」とありましたが、特に年の瀬特有の風景ではないと感じました。蛇足ですが。