何気なくテレビを見ていたら、NHKで「史上空前の論文捏造」というルポ番組が放映されていた。
2000年ころ、米ベル研究所に所属していた J.H. シェーンが超伝導実験の捏造論文を Nature や Science に次々と発表したって話。
2002年にベル研が外部識者を含めた調査委員会を結成して調べたところ、24編の論文のうち16編に捏造が認められたらしい。
なお、捏造疑惑が持ち上がったのは、世界で100近い研究チームが追試できなかったことがきっかけ。シェーンの実験試料(有機物質の上にアルミ箔を蒸着する)をどうしても作ることができなかったらしい。
その後、ある研究者がシェーンの2編の論文を見比べたところ、異なる実験結果のグラフがまったく同一(ノイズのパターンが合致!)であることが決め手になったらしい。
この手の話としては、パロディ論文を投稿したところまともなレビューもされずに採録されたという「ソーカル論文事件」もありますが。
ソーカル論文事件とシェーンの捏造に共通する問題として、「peer review がまともに機能していない」という問題が考えられますね。
番組の中でも、Nature 編集者のコメントとして「編集部は内容の全てに責任を持つわけではない。内容に関する責任はレビューワーに帰属すべき部分も多い」(正確ではない)みたいなコメントがされていた一方、ある大学教授のコメントとして「分野が細分化されすぎていて、論文の内容を完全に理解して、的確に問題を指摘できる人がいないという問題もはらんでいる」(正確ではない)と主張されていました。
Peer Review は学術論文の「良識ある陪審員」ですが、うまく浄化する方法を考えるべき時代になっているのかもしれない。
ソーカル論文事件と照らせば、peer review が共通部分ですが、番組で「資本と科学」のネジレタ関係に言及していたのが、僕的には同意でした。
民間企業で給料をもらいながら研究(しかも、直接カネ儲けには繋がらない基礎研究)している身(別に愚痴っているわけではない。むしろ、余計な雑用は大学などよりよっぽど少ないので感謝してるくらい)なので、非常に共感しながら見ていた。
要するに、民間企業の研究者は「真理の追究」よりも「資本家の利益の追求」を求められるわけで。
資本家の利益ってのは、直接的なビジネスに結びつくものも当然あるけれど、その企業の評判を高めるための”宣伝”っつーのもあるだろうし。そうなると、それなりに「いいジャーナルに、継続して、インパクトのある論文を出す」ってのが求められるわけで。
シェーン君、それやったマズいよ、と思いつつも、彼のプレッシャーも理解できちゃったり。
サラリーマンやってると、解雇されないようにしないとダメだし、出世もしないとダメだし。
世の中にどんな職種があって、その人々が社内でどんな評価をされるのかはあまりよく知りませんが、研究者となれば「論文を何本、どれだけインパクトのあるものを出したか?」という軸で評価されるわけで、そうなると無茶しちゃう気持ちもよくわかる。
社会全体として年功序列が崩壊しつつあり、何かと「実力主義万歳」になりつつある風潮。
ますます、publication へのプレッシャーは強くなると思われ。
偉ぶるつもりは全然ありませんし、嫌味を言うつもりもまったくありませんが、大学も”生き残り”にしのぎを削る昨今。国公立大学も独立行政法人化されちゃったし、近い将来には「民間研究所」と同じ風潮になるんじゃないかと、対岸から一人勝手に心配してみたり。
僕とこのblogを見に来てくださっている同業者の皆さんは、僕とは違って優秀な方々ですのであまり心配はないとは思いますが(心の底から言っておく。皮肉ではない)、油断はできないんじゃないかと。
世知辛い研究生活時代が来ても、「研究者の良心」だけは捨てないようにしましょうね、ご同輩。