『ヤバい経済学』だの、『まっとうな経済学』だの、『こんなに使える経済学』だの。
最近、中島隆信の『これも経済学だ!』というのを見つけた。
「どんだけ雨後の筍なんだろう。柳の下にはそんなにたくさんのドジョウがいるだろうか。ていうか、もう食傷気味じゃね?」
などと思いつつ、まぁとりあえず、比較検討の意味でも読んでみることにした。
ところが、最初のネガティブな印象とは裏腹に、読んでみたらフツーに面白い。
取り上げられている “日常的で身近な例” は主に3つの分野。
1. 伝統文化 (大相撲、将棋、落語などなど)
2. 宗教 (檀家制度と新興宗教の適応戦略の違いなど)
3. 弱者救済 (特に、身体障害者)
基本的な視点は、競争市場と独占市場との対比で世の中を見る視点。
宗教をそういう視点で考えたことはなかったから新鮮だった。
徳川時代、寺は近隣住民を檀家としてまとめることを義務付けられた。
幕府としては、戸籍の作成を寺に請け負わせたわけだ。寺にとっても、近隣住民が自動的に信者になるので(お布施も獲得できる)、その制度を支持した。
人々の地理的移動もほとんどなかったため、寺は長い間、安定した運営を続けることができた。
仏教寺院による、宗教行事の独占市場が出来上がったわけだ。
しかし、第二次世界大戦後から高度経済成長期にわたって、人々の流動性が高まった(田舎から都会に出てくる)。地方の檀家制度の崩壊が始まったわけだ。
都市部では、所属する寺や宗教団体を持たない人々が増え、信者獲得への参入コストが低下し、新興宗教が爆発的に現れたという説明。
ああ、納得。
さらに宗教がらみで言えば、今日の宗教団体の意味は「葬儀と供養」にしかないと指摘。
確かに、昔なら、人々の社交場であったろうし、結婚式を執り行うなどもしていた。
しかし、現代では、社交場としての宗教の意義はほとんどなさそうだし、結婚式なんかも宗教に依存しない「人前式」なんてのもポピュラーだ。さらに言えば、パートタイムの牧師が結婚式を執り行うなんていうケースもあるし。
結婚式ですら宗教的な意味がなくなってきたのだから、葬儀や供養なんかも非宗教的なやり方がポピュラーになる日も近いのだろうか。
本書の中でも「マンションで電話だけのある僧侶」なんて例が紹介されてるし。僕が思いつく例でも、遺灰を海に散骨してほしいといった、宗教色の薄い供養を求める人も増えているようだし。
このように、僕は宗教の将来がなんとなく気になりはじめた。今まで、宗教なんてまったく興味がなくて、違う世界のことだと思っていたのに。
ところが、本書を読むことで、世の中を眺める視点がちょっと膨らんで、(今まで以上に)いろいろなことに思いをはせるようになった。
別にそんなこと考えようが、考えまいが、自分の人生にあんまり大きな変化はなさそうだけれど。
変化はなさそうだけれど、世の中の現象の背後に何があるのか考える癖をつけるのは、退屈しない人生を送ることができそうな気がする。
そう気づいただけでも、読んだ甲斐があったかも。