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情熱を持って書く: 『言語表現法講義』(加藤典洋)

僕は、自分の文章にうぬぼれてはいないつもりだ。それほど優れた修辞技法を使えるわけでもないし、書いてある内容だって必ずしも人々の関心を惹くものではないだろう。
それでも、5年近くも当blogを継続し、記事数も通算2,000を越えた。その間、何人かは僕の文章のファンになってくれたようだ。人に認められるということは、素直に嬉しい。僕の活動の原動力となっている、ファンの皆様には感謝したい。

自分のファンのことは、分け隔てなく大切にしているつもりの当方である。しかし、女好きで有名な当方のことであるので、普段から女性ファンのことを優遇しがちなことを本人も自覚している。自覚しているのだが、改善するつもりも、義理もない。今後もこの調子だ。

何人かいる女性ファンのうち、当方が「ファン第一号」と認定証を発行して差し上げてもよいと考えている女の子がいる。
彼女は
はぁ?なに寝ぼけたこと言ってんの?そんなの欲しいわけないじゃん。むしろメーワク
と一笑に付すだろうが。

僕たちが中学2年生の時だから、もう20年も前のことだ。
冬休みの読書感想文で、僕は当時出版されたばかりであったマイケル・ジャクソンの自伝(『ムーンウォーク』)について書くことにした。中学生の読書感想文といえば、芥川だの井伏だの太宰だのが定番の中、外タレの自伝っつーのは少々異様ではあった。
当時、マイケル・ジャクソンに心酔していたという理由もあったが、それを選んだもう一つの理由もあった。どうせ先生も真面目に目を通さないだろうから、マジメに取り組んだって報われないと思ったのだ。つまらない思いをしながらツマラナイ宿題を仕上げるくらいだったら、自分が楽しめるように宿題をこなそうと思った。だから、自分にとって楽しい本を選んで、楽しく感想文を書いた。もし先生から「けしからん」と叱られれば、それは彼が真面目に生徒たちの読書感想文に目を通した証拠であるし、それだけ一生懸命向き合ってくれるなら、次回から心を入れ替えてマジメな読書感想文を書こうとも思っていた。

マイケル・ジャクソンの自伝という題材が独特のものであるなら、文章スタイルも独特なものにしようと、原稿用紙に向かう前に決意を固めた。
田中康夫の訳文が口語調だったという理由もあったのだが、僕の感想文も口語調にした。小学校低学年じゃあるまいし、原稿用紙に口語体を用いることは、紋切り型の中学校教育を受けていた当方にとっては少々の抵抗感もあった。しかし、学校教育や教師に対する抵抗感がそれに勝った。

単に話し言葉で書いてもツマラナイので、マイケル・ジャクソン本人への手紙を装った文章にした(日本語なので、彼には読めなかっただろうが)。彼の自伝を、彼から僕に送られてきた手紙だとみなし、それに僕が返事を書いたというコンセプトの読書感想文にした。中学生の作文にしては、セオリーを完全に無視していたものであるが、かまうもんかと思った。

冬休みが終わってしばらく経ったが、特に先生からの反応はなかった。がっかりした。
もちろん、僕以外の生徒の作文に対する講評も一切なかった。バカバカしい思いがした。

さらにしばらくして、市内の読書感想文コンクールへの応募作品を選定することになった。最終的な学校代表作は教師の誰かが選ぶのだが、各クラスから何編か候補作を選ぶこととなり、図書委員(生徒)が全てに目を通して推薦することとなった。

僕のクラスの図書委員は、僕のケンカ友達の女の子だった。
彼女と初めて口をきいた思い出は、”war” の発音が「ワァー」なのか「ウォー」なのかという口論だった。さらには、その口論がどこでどうこじれたのか、最終的には
私は、毎日ヨーグルトを食べている。だから、アンタより絶対に長生きするんだからね!
と捨て台詞まで吐かれた。

それ以後も、「学校のお勉強はできるかもしれないけれど、人の気持ちは分からない人だ」とか、「いい人のフリはしているけれど、腹の中では何を考えているか分からない」だの、「友達としてはいいけど、絶対に男としては付き合えない」などと、いつも残酷なことを言われたりしていた。
もちろん、僕も言われっぱなしじゃなくて、激しく反論したりしていたが。

そんな彼女が、クラス推薦作として、僕のお手紙風読書感想文を選出してくれた。
個性的で、他の誰のものにもない、独特な面白さがあったから
と、彼女が珍しく褒めてくれた。

この事実を持って、彼女を僕の文章のファン第一号であると認めることができる。

彼女は、おそらくこのblogの存在を知らないだろうし、当時の読書感想文エピソードも忘れてしまっているだろう。
けれども、僕はあの時の嬉しさを今でも忘れることができない。一度、彼女に事情を説明して感謝の言葉を述べるべきだろうとも思うのだが、
はぁ?なに寝ぼけたこと言ってるのさ?
と言われるのがオチで、繊細な僕は深く傷つくに決まっているので、彼女には当面打ち明けないことにしておく。

なお、彼女が推薦してくれた僕の感想文は
こんなのフザけすぎ
の一言で、あっという間に落とされたと聞いた。
後に、コンクールの優秀作(他校のものだった)を眺めたのだが、「いかにも優等生が、大人が喜ぶように書きました」というもので、2行くらい読んで、それ以上先に進む気力が湧かなかった。

そして、僕は意欲的な作文を書こうという気力もなくした。
中学3年生のときに、どんな読書感想文を書いたかは、まったく覚えていない。記憶する価値もないほど、ツマラナイ感想文を書いたんだろうな、ということだけは想像できる(そもそも読書感想文が課されなかったという可能性もあるが)。

5年前にblogを始めたときから、少しは人様に面白がってもらえる文章を書こうと努力している。あの読書感想文を書いたときと同じような情熱を持って。
大成功を収めているとは言えないだろうが、少々のファンはついているようなので、大失敗でもないのだろう。それは嬉しい。


以上は、steraiさんに薦めてもらった、加藤典洋『言語表現法講義』を読んだ直後に、一気呵成に書いたもの。

同書を読むと、実際に文章を書いてみたくなって仕方がなくなる。
しかも、情熱のこもった、アツい文章が書いてみたくなるから、始末におえない。
さらに酷いことには、人に見せたくて仕方がなくなるという、悪影響もある。
けれども、「書くことを通して、自分を知る」というのが、本書のメッセージなのだから仕方がない。

同書には、文章を書くこと、しかも、アツい文章を書く上での tips が満載なのだが、僕が感じ取ったメッセージは
・書くことは、自分について考えること
・下手な文章教育は、かえって書く意欲を阻害する
・自分のスタイルを確立すること
の3点に集約される。それを感じ取った結果が、冒頭の文章となって結実したわけである。

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