太宰治の『走れメロス』は面白い(青空文庫で読む)。
しかし、僕は長い間、その面白さの本質がなんなのかわからずモヤモヤしていた。中学生の読書感想文なら「友情とはなんて素晴らしいものなのでしょう」などと無難にまとめておけば国語のセンセーの覚えはめでたかろう。けれども、なんだかそれだけではないような気がしていた。
「走れメロス」は、作者自身が書いていて楽しくてしょうがないといった印象の、次へ次へと飛びついていくような文章。
それで僕ははたと膝を打った。確かに、太宰の『走れメロス』はまるで活字がひとりでに踊りだすかのような迫力と躍動感がある。それが『走れメロス』の面白さの本質なんだと理解した。
本作は、『走れメロス』のような非日常的冒険譚ではない。
郊外にある庶民的なスーパーマーケットを舞台(札幌市の北海道神宮のあたりだ)とした、あまり特別な事は起きない、市井の人々のしみじみとした日常風景のスナップだ。全9章からなる連作短編集で、それぞれ異なる主人公が登場する。彼ら一人ひとりにとっては、人生の新しいステージの幕開けなのかもしれないが、世の中のどこにでもありふれたような、小波みたいな日常風景だ。わりと淡々と物語は進む。
けれども、どういうわけか、面白くて目が離せなくなる。
その理由がなんなんだろうかと考えてみると、著者が楽しんで書いている様子が行間から読み取れるせいなのかもしれない。
本作は、仕事がなく腐っていた時代に、著者が習作として書いたものだという。あとがきによると、
本はおろか、掲載するあてもない、トレーニングのようなものだったから、私は鬱屈を深めてもおかしくなかったのに、そんなことはぜんぜんなくて、ないばかりか、なんともいえないしあわせなきもちになっていった。
だという。
その「しあわせなきもち」が文章ににじみ出ていて、読者に感染する。そういう心地よさのある作品だ。
著者がしあわせすぎるため、あまりに都合のよすぎる展開の部分もある。各章で独立していた登場人物たちが、ある事件をきっかけに交流の輪ができてしまったり。
しかし、それはそれで、「まぁ、そういうこともあるかもしれんなぁ。絶対に無いとは言い切れんだろう」と大らかな気分で読ませるだけのしあわせなきもちが散りばめられている。
暴君ディオニスが、メロスとセリヌンティウスの篤い友情に都合よくほだされるのを読者として受け入れることができるのと同じように、スーパーの入り口で繰り広げられる大団円は自然に受け入れられよう。
著者の朝倉かすみは北海道出身・在住であり、道産子への評価の甘い当方ではあるが、本作は著者が道産子だと知らずに読んでいたとしても同じように楽しんで読んだことだろうと思う。
小説の舞台は札幌だけれど、特に土地勘がなくても普通に読める。多少北海道弁も出てくるが、軽い異文化風味程度のものなので、道産子じゃなくても理解可能。
さらに、文庫版に収録されている、山口裕之氏の解説も秀逸。朝倉かすみの読書案内としてとても参考になる。
なお、僕は5章「232号線」が好きとかいうめんどうなタイプ。