ただ、こうして生きてきてみるとわかるのだが、めったにはない、何十年に一回くらいしかないかもしれないが、「生きていてよかった」と思う夜がある。一度でもそういうことがあれば、その思いだけがあれば、あとはゴミクズみたいな日々であっても生きていける。
中島らも『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町
』 p.193
ただ、こうして生きてきてみて振り返ると、「生きていてよかった」と思う夜なんて、あんまりなかった、37年でほとんどなかった。本当にそういう夜がやってくるのか確かめたい、ゴミクズみたいな中島らもが嘘つきかどうか確かめたい、その思いだけで日々生きていると言っても過言ではない。
ただ、こうして書いてみたらわかったのだが、めったにはないはずの、何十年に一回くらいしかないかもしれない、「生きていてよかった」と思う夜があった。しかも、そう言ってから一年すらも経っていなかった、ゴミクズ呼ばわりしてごめんなさい、中島らもさん。
https://twitter.com/#!/almore/status/17589073388507136
さらに、twitterのログを検索したらわかるのだが、「生きていてよかった」と思うことは必須ではなかった。いかなごのくぎ煮があれば、そのおかずさえあれば、あとは白米だけで生きていけると宣言していた例もあった。
https://twitter.com/#!/almore/status/11877179012
どうやら、こうして考えてきてわかったのだが、めったにはない、何十年に一回くらいしかないかもしれないというのは中島らもの大ウソで、「生きていてよかった」と思う夜は年に一回くらいはやって来る。年に一度あるならば、そう信じることができるなら、あとはゴミクズみたいな日々であっても割と平然と生きていけそうだ。
これは大発見だ。
楽観主義者にとってはごく常識的なことかもしれないが、厭世的で悲観主義的な僕には大発見だ。
こんな大発見ができたなんて、生きていてよかった。
(今年のノルマ達成)
どうも僕は、失敗したこととか、悲しかったこととか、ツイてなかったこととか、そういう事ばかり記憶に留めてウジウジする傾向にある。しかし、成功したこととか、嬉しかったこととか、ツイてたこととか、女の子にモテたこととか、「頭いいですね」と言われたこととか、「おしゃれですね」って褒めてもらったこととか、タダ酒をたんまり飲ませてもらったこととか、一晩で3回イカせてもらったこととか、憂木瞳のご開帳を生で拝んだこととか、山瀬まみのパンチラ写真をHDDにいくつも持っているとか、学生時代にさんざん俺のことをハゲ呼ばわりした奴が今や俺より髪が薄いこととか、後半に行くほど「それってどうなのよ?」的な下品なリストになってしまっているが、それはそれとして、注意深く思い出せば僕にはポジティブな記憶もたくさんある。
人の記憶の容量が一定だとするなら、どうせ覚えておく事柄の数に上限があるなら、辛いことよりも、楽しいことをたくさん覚えておいた方が得かもしれない。
「アイツにあんなに嫌なことをされた。一生忘れない」と言い、折に触れてアイツの嫌なところを思い出してムカムカするのは損だ。「あの子にあんなに気持いいことをしてもらった。一生忘れないでおこう」と言い、折にふれて思い出してはニヤニヤする方が得だ。
とてもいいことに気づいた。
こんなことに気づいたなんて、生きていてよかった。
(今年のノルマ黒字)