『日本の憑きもの: 社会人類学的考察』(吉田禎吾)

 夏休みシーズンに当方が行った「夏の読書感想文大会」の自由図書部門(当方に「読みたい!」と思わせるような感想文を投稿する部門)に、steraiさんが『日本の憑きもの』という本でエントリーしてくれた。
 正直に言う。彼の読書感想文はとても興味深かった。@myuukoさん の『大奥』がなければ、この読書感想文が優秀賞でもおかしくなかった。そういう意味では、sterai さんはツイてなかった。

 もう一つ、正直に言う。彼の読書感想文はとても興味深かったが、対象となっている『日本の憑きもの』という本そのものにはあまり興味がひかれなかった。キツネ憑きだのイヌ憑きだの、なんだのかんだのというものは、僕は実際に目にしたことがない。非科学的な現象であろうし、真面目に相手にするようなものでもないと思ったからだ。
 しかし、「読まず嫌い」もどうかと思い、一度目を通してみようと思った。そして、一通り読み終えた。


 憑きものについて本を書くとしたら、一つの路線は、キツネなどに憑かれてしまったしまった人の心理状態であるとか、憑かれるメカニズムであるとか、超常心理学的であったり、スピリチュアルであったり、宗教的なものであったりするだろう。

 しかし、この本はそういう路線ではなかった。
 著者は社会人類学が専門であり、社会環境の観点から憑きものが発生する要因を分析している。著者は、人が本当に「憑かれる」かどうかはあまり気にしていないようだ。「大安に葬式をしてはいけない」とか「鳥居にションベンをひっかけるとバチが当たる」などといった、民間伝承や宗教的な現象として憑きものを扱っている。
 例えて言うなら、「キリストが死後復活したなんてことは、きっと大嘘だけれど、それを宗教として信じる人の文化は認める」という立場というか、なんというか。憑きものなんて、きっと大嘘なんだけれど、それがあると信じている人の立場は認める。そして、どうしてそういう民間伝承が発生したのか、その理由にせまる、という考え方だ。

 そして、著者の結論はシンプルだ。日本の中世以前(江戸初期あたり?)の農村社会では、住人同士の互助体制が社会の根幹だった。たとえば、田植えや稲刈り、婚姻や葬式など、経済的な損得なしで互いに助けあうのが当たり前だった。そのような中で、仲間を助けない利己的な人間は仲間はずれにされる。その仲間はずれの象徴として「憑きもの」という不名誉称号を与えて、村八分にするという話だ。
 さらに、旧来の農村社会の中に、貨幣経済によって富を蓄えた新興勢力が流入してくる。新興勢力は経済的損得勘定に突き動かされて行動するため、農村共同体の規範に反する。そういった人物を「憑きもの」としてコミュニティから排除するのだ。

 面白いのは、2つの社会体制の違いから、ある予測が成り立つことである。「憑きもの」という信仰をもってよそ者を排除しようとするのは、互助制度に基づく旧来の勢力に特有な制度であるはずである。実際、そのことを実証する調査結果も本書の中では示されている。
 そして、現代日本(日本の津々浦々、ほとんどの地域に貨幣経済が行き渡った)では、「憑きもの」を信じる人がほとんどいないという事実にも合致してる。

 読まず嫌いしないで、読んで良かったと思う。
 社会構造の違いがそこの住人の心理傾向や文化に影響を与え、それが再生産され維持されるという視点は、たとえば、『名誉と暴力―アメリカ南部の文化と心理』(ニスベット&コーエン)なんかの話と通じるところがあり、今日の社会心理学/文化心理学のホットトピックと同じ文脈にある。

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