もう一度、もう二度、もう三度、太陽の塔のもとへ立ち帰りたまえ。
バスや電車で万博公園に近づくにつれて、何か言葉に尽くせぬ気配が迫ってくるだろう。「ああ、もうすぐ現れる」と思い、心の底で怖がっている自分に気づきはしまいか。そして視界に太陽の塔が現れた途端、自分がちっとも太陽の塔に慣れることができないことに気づくだろう。
「つねに新鮮だ」
そんな優雅な言葉では足りない。つねに異様で、つねに恐ろしく、つねに偉大で、つねに何かがおかしい。何度も訪れるたびに、慣れるどころか、ますます怖くなる。太陽の塔が視界に入ってくるまで待つことが、たまらなく不安になる。その不安が裏切られることはない。いざ見れば、きっと前回より大きな違和感があなたを襲うからだ。太陽の塔は、見るたびに大きくなるだろう。決して小さくはならないのである。(森見登美彦 『太陽の塔』 p.116)
太陽の塔を前にした時に我々が感じる畏敬の念を、これほど見事に捕らえた文章は、僕が知る限り他にはない。
ましてや、大阪府ですらない。
京都大学の「休学中の5回生」というトホホな主人公が、愛車(自転車)の「まなみ号」にまたがって京都市内を縦横無尽に駆け巡ったり、まなみ号が盗まれて自分の足で走って京大生狩りの男たちから逃げ回ったり、大文字山で山火事の恐怖に怯えつつ「犬文字焼き」に憧れたりもしながら焼肉をしたり、酔っ払って木屋町の高瀬川にじゃぶじゃぶと入っていく部活の先輩がいたり、彼女のいない野郎どもで連れ立って京都駅の大階段に設置されたクリスマスツリーを見学に行ったり、京大の生協の本屋で立ち読みしたりと、とにかく現実の京都市内が舞台で、実在の地名がこれでもかというくらい出てくる。
京都府民でありながら、年に数回しか京都市内には出かけない当方にとっては、よくわからない地名がたくさんあって少々混乱するが、どっかで聞いたような名前のオンパレードなので楽しい。
この作品、「日本ファンタジー大賞」受賞作だそうだ。
出だしを読むと(ここで冒頭部分を読める)、昭和初期にはやったジャンルである私小説かと思ってしまうくらい、風景も登場人物の来歴・心情もデティールが細かい。
しかも、主人公の一人称視点が貫かれており、筆者の実経験そのままに書かれていると言われても何の疑問も抱かない。
しかし、叡山電車が万博記念公園に通じているあたりで、やっとファンタジーだと気づかされる。
微妙にリアリスティックで、ほのかにファンタジックなのが心地良い。
しかも、全体を貫くシニカルでヨーモラスな自虐的スタイルがたまらなく心地良い。
(冒頭から突き抜けてる)
現役・卒業生を含め、京大関係の知り合いがたくさんいるので、彼らの生活を垣間見ているようになれる点でも楽しい。
当方の勝手なステレオタイプでは、京大関係者は「禅問答のような哲学的思弁が大好き」ということになっている。
登場人物がいずれも当方のステレオタイプに合致するので、笑いが止まらない。
#そういや、スピリッツで「京大M1物語」という連載が始まったね。あんまり面白いとは思わなかったけど。
ただし、女性登場人物は、”エキストラ”を除けば3人しか出てこず、濃厚な男汁が文庫本についているあのしおり用の紐からタラタラと垂れてきそうなほどである。ぜんぜん艶っぽくない。
しかも、ヒロインであるはずの水尾さんなんて、脇役の邪眼こと植村さんよりも影が薄いかもしれない。
でも、水尾さんってば、猫系の女の子らしい。
それだけで惚れちゃいそうだね。
「私、部屋によけいなものが増えるのは嫌です」
って言われたら、泣いちゃうけど。