ユニセフの募金ページから、クレジットカード番号や常識的な個人情報項目をちょいちょいと入力するだけで、簡単にできた。
募金額 1,584円なり。
金額も、端数付きだろうがなんだろうが、入れられた。
#年間5,000円以上寄付したら、所得税控除が受けられるのに、領収証発行をナシにしてしまった。今のところ、控除最低額に達してないけど、あと半年の間に3,500円以上寄付することになったらどうしよう・・・。
(参考:一定の寄附金を支払ったとき(寄付金控除)<国税庁>)
寄付のいきさつは以下のとおりである。
ベッドの中で寝ぼけ眼でメールを読んでいたら、ちょっとうれしいメールが来ていた。うれしくて飛び起きたのだが、この喜びを何かの形にして残しておきたいと思った。ただし、利己的な形で残すと、自分が浅ましい人間に思えてしまいそうだった。
だから、募金として残しておくことにした。受付メールで日付等も残るし。
ただ、僕が小さい人間性の持ち主であることは次に記すような行動に表れてしまっている。
まず、誰にも告げずに募金すりゃいいのに、わざわざblogに記録を残すところが、いかにも小人物。
ただし、黙して募金しない人物よりも、吹聴して募金する人物の方が、ちょっとだけ人間が大きいのではないかと、自分を慰めている。黙して募金する人物には絶対にかなわないけど(コメントで指摘してもらったが、そういう人物はあまり偉くないかもしれないという考え方もある)。しかし、募金したと吹聴して実際には募金していない人物がいたとしたら、その人よりはよっぽどましだろう。
もう1点、自分が小人物であることは、Amazon ギフト券。
募金したことに気をよくして、募金額と同じだけ Amazon ギフト券に登録した。自分の消費活動に充てる。
「じゃあ、募金額を2倍にしろよ!」という突っ込みも聞こえるような、聞こえないような気がするのだが、そこまで僕は人間ができていない。
自分にもご褒美がないと、なかなか人助けというのはできないものだ。
調べたら、半年くらい前には、僕はwikipedia 財団に寄付していたようだ。
以前、吹聴の意義について考えたことがあります。
木公クンが「寄付した」と吹聴すると、(仮に実際には寄付してなかったとしても)それに感銘を受けて真似する人が出てくる。その人も「自分も寄付した」と吹聴すると、もっと真似する人が出てくる可能性がある。ところが、木公クンが吹聴しないと、真似する人は出てこない。と言うわけで、吹聴には社会運動を「広める」効果がある。寄付行動そのものには「広める」効果はない。社会運動を広めることそのものにも異議があるのだから、吹聴することにだって意義はある。とかなんとか。
http://green.ap.teacup.com/programmingdiary/512.html
僕もこの前ファミマで募金箱に小銭入れたぜ。とつまらない吹聴をしてみる。ああ、黙っていれば木公よりでかい人間になれたのに。
sterai さん:
紹介いただいた文章、既視感がありました。
そもそも、sterai さんとは考え方が似ていることもあり、おっしゃってることにはうなづけます。
そんなわけで、そうとは気づかずに(思い出せずに)同じことを書いちゃったんだと思います。
コメントありがとうございます。
大彦くん:
デカい、小さいで騒いでる時点でダメじゃね?
僕も含めて。
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