『陰翳礼讃』 谷崎潤一郎

谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読んだ。

タイトルの読み仮名は「いんえいらいさん」。ちと難しい。意味としては「薄暗いことを褒め称える」ってところか。
以前からこの本の存在は知っていたのだが、タイトルが小難しいのでずーっと避けていた。谷崎の文章はどれも軽妙で読みやすい上に、基本的に彼の書くものが大好きな当方であるが、タイトルの文字面から『陰翳礼讃』にはどうしても食指が動かなかった。

しかし、ふとブックオフで同書を見つけ、ついデキゴコロで買って読んでみた。
そしたら、事前の恐怖心はなんのその、軽く愉快に読めるエッセイ集だった。
昭和ヒトケタ代に書かれたにもかかわらず、まったく古臭い気がしなくて、現代にも通じると思えるところがたくさんあって驚いた。
谷崎の先を見通す目が鋭かったのか、70年たっても日本はほとんど進歩していないのか。


本書に貫かれているテーマは、タイトルにあるとおり
日本文化は、ほの暗いものを前提とした文化である。それが忘れかけられているのは、寂しいものだ
というもの。

わかりやすい例としては、電気照明。
現代では電気照明が当たり前で、家の中は夜でも日光の下にいるかのような明るさだ。
谷崎がこのエッセイを書いたころは、白熱灯がどんどんと普及してきたころで、あちこちがピカピカと照らされていくことに苦言を呈している。

単に「新しいものはケシカラン」っつー話だと老人のたわごとに過ぎないのだが、日本の伝統的な工芸品に沿って話を進めるところに谷崎の洞察の深さを感じた。
西欧はなんでもかんでも光らせることに美意識を感じ取ると谷崎は指摘する。たとえば、銀食器を磨き上げてピカピカしたものをありがたがる。
それに対して、日本ではくすんだ色使いの食器を使っているだろう、と。たとえば、漆塗りの椀など。そしてそれらの椀には、ワンポイントで色鮮やかな模様がつけられている。

くすんだ地の中に、控えめに鮮やかな模様があしらわれていると何が起きるか?
特に、薄暗い空間の中でそのような食器を使うと、どんな効果があるか?

膳に並んでいるときには、薄暗い風景にまぎれて、模様は何も見えない。
しかし、椀を手に持って顔に近づけると、手元の光源に照らされて、急にビビッドな模様が目に浮かび上がる。
そのコントラストに象徴されるような、陰翳の機能こそが日本文化の真髄なのではないかと谷崎は主張している。

谷崎に言わせれば、薄暗いところでは美しかったのに、電飾の普及で明るくしすぎたために興ざめになってしまったものがたくさんあるとのことだ。
たとえば、女性の白粉による化粧。確かに、あれは弱い光に照らされるからこそ、幻想的な美しさが映える化粧法だ。いわれてみれば、顔を真っ白に塗った舞妓さんを日中の京都で見かけて、何度ギョッとしたことか。

さらに谷崎は、物理的な陰翳(光の強さ)だけの問題ではなく、象徴的な陰翳の問題にも踏み込んでいる。
・・・とか書くと、ものすごく格調高いような気がするけれど、わかりやすく書けば “チラリズム” の話だ。
女性がはじめっから肢体を見せびらかすことには興奮しない、と。着物の襟や裾という陰翳から、ちらっと白い肌が見えるから、美しいのだ、と。
#さすがは、フェチ作家の谷崎だ・・・。

また、話は陰翳の件から離れるけれど、谷崎流花見の楽しみ方がものすごく参考になった。
彼は人ごみが嫌いらしく、大勢集まって馬鹿騒ぎしている現場に行かずに花見をしたいと思っていた。
そこで、彼が提案する方法というのは「普通列車に乗って、車窓から花を見る」という方法だ。
当時も現代と同じで、急行列車は人がいっぱいで混雑するのだが、各駅停車は空いていてのんびりと車窓を眺めることができるらしい。
そして、比較的ゆっくりと進むから、線路沿いの桜を十分に目で楽しむことができるのだ(彼は、大和路線を推薦している。今でも天王寺から奈良に向かって同じ路線を走れるね)。
確かに、こりゃいいアイディアかもしれない。
僕も人ごみが嫌いな方だし、まずは今年の紅葉見物で実践してみようかと思う。

そんなわけで、堅苦しいタイトルを裏切るように、中身はユルユルで、ちょっと下世話で楽しいエッセイだった。

コメント (1)

  1. ピンバック: [alm-ore] 『たそがれ清兵衛』を見た

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