僕たちは、殺人者は残虐非道であり、相手が誰であっても躊躇することなく殺してしまう、となんとなく思い込んでいる。小説や映画でそのような登場人物をたくさん見ているせいかもしれないし、マスコミ報道などで凄惨な犯人像が日常的に伝えられているせいかもしれないし、センセーショナルでおどろおどろしい事件は茶飲み話で取り上げられやすいせいなんかもあるかもしれない。
しかし、法社会学を専門とし、公的な統計資料を調べたり、刑務所を訪問して聞き取りを行っている著者によれば、実際の殺人者像は大きく異なるらしい。
日本の殺人数は年間1400件ほどだそうだ(未遂-人殺しを実行したが死ななかった- と予備-殺すつもりで準備した- を含む)。人口10万人あたりに換算すれば 1.2件となる。他国と比較すれば、アメリカで5.6、イギリスで3.5であり、日本は他の先進国に比べてずいぶんと殺人が少ない。このあたりは、「日本は治安がいい」ということなので、今さら騒ぐほどのことでもないが。
殺人事件で、加害者と被害者との関係を調べると、親族だけで6割ほどだそうだ。特に多いのが、一家心中だそうだ。確かに、三面記事を読んでいると、「素行の悪い息子を殺して、父が自殺」とか「介護に疲れて年老いた母を殺し、自分も自殺」なんて話がよく出てる。
ぼーっとしていると、繁華街での通り魔とか、変質者が幼女にイタズラした後殺害とかの殺人ばっかり起きているような気がするが、そんなのは全体の数から見れば少ない。加害者と面識がない被害者の数は全体の10%ほどだそうだ。
1章「殺人事件の諸相」は全270ページの半分以上の紙幅を割いて、日本の殺人事件の統計的な真相を丹念に説明してくれている。
続く2章「捜査、刑務所生活、そして出所後」では、マスコミでもあまり取り上げられることのない「逮捕後の容疑者の扱い」について詳しく説明してくれる。ドラマでも報道でも、クライマックスは”犯人逮捕”なのだが、その後彼らがどうなるのかはあまり語られない。せいぜい、裁判でどういう判決が下されたかが伝えられるくらいだ。
それに対して本書が興味深いのは、刑務所にはどんな人間がいくかという観点だ。
刑務所のスペースにも限りがあるし、刑務所は必ずしも罰を与えるだけの施設ではなく「矯正」のための施設でもある。そのため、容易に矯正できると考えられる者は、執行猶予が付けられたりしてそもそも刑務所に入らない。また、刑務所での生活において、十分矯正ができたと思われる人物は、刑期よりも早く仮出所させられる。
さて、「矯正」、すなわち再犯しないよう教育することが目的であるとすると、そもそも強制させる必要のない殺人者が存在することが分かる。日本でもっとも数の多い「家族内殺人」の犯人たちだ。
彼らは、家庭内の問題を解決するために特定の人物を殺した。病苦からの開放かもしれないし、世間に解き放つべきでない家族の抹殺かもしれない。そういった、家族内の特定の理由があるということは、無差別な殺人はしないことが予想される。つまり、社会の他の人々を殺すなどという、再犯する可能性は少ないと考えられるのだ。そのため、出所しやすい処遇になるそうだ。
良く分かる話だ。
ただし、話はそんなに単純に終わらず、出所後の再出発に関してはよく注意を払わなくてはならない。出所者の保護や生活の基盤のよりどころとなるコミュニティがなければ、生活が成り立たず、再度犯罪をしてしまう可能性がある。特に、家族を殺した場合は、帰る家庭が崩壊している可能性も高いので、社会全体で支えてやる必要があるということが主張されている。
「元犯罪者に手を差し伸べるなんてイヤだ」という心情もあるだろうが、そうせずに放置すると、彼らは再犯して再び社会に迷惑をかける可能性があるわけだ。それならば、元犯罪者を暖かく迎えるほうが理にかなう。
3章は「ひとを殺すとはどういうことか」をテーマに、人殺しの哲学的考察、戦争という殺人、死刑制度の是非(元来、これも殺人の一種だ)について論じられている。
もっとも意見が分かれるのは、死刑制度についてだろう。
著者は、死刑制度の存在には条件付で賛成の立場だ。量刑にはスペクトルがある。軽い端を無罪放免とするなら、重い量刑の極は死刑であろう。死刑制度を廃止するということは、量刑のスペクトルの一方の端を無条件に切り捨てるということになる。それは理念上、容認できないという。
また、世の中には残念ながら「矯正」できない者もいる。矯正不能者は出所させることもできず、かといって税金で一生面倒を見るのも道義的な問題があるかもしれない。また、他の受刑者に悪影響を与える可能性もある。ゆえに、死刑もやむなしという立場だ。
ただし、彼は積極的に死刑を執行することを良しとはしない。
死刑制度は存在しているのに、死刑は執行されない社会がいいだろうと考えているようだ。
執行されないというのは、法務大臣が執行命令書へのサインを拒否するとか、裁判官が原則的に死刑判決を下さないとか、そういう話ではなく。具体的なやり方はわからないが、社会のあり方が変わって、「死刑判決を受けるような犯罪を起こさざるを得ない人がいなくなる社会」の実現を目指すという、ヒューマニズムに基づいたものだと、僕は読んだ。
この理解が正しいなら、僕は彼の意見に賛成だ。
最終章は10ページ程度の短いものだが「社会的大転換の裁判員制度」という、現代的テーマを扱っている。
僕たち一般人は、裁判で何が争われ、どういう理由で判決が下されたのか、表層的にしか理解していない。マスコミが詳しく報道しないからという理由もあるが、それは僕たちが興味を示さないから、(ニーズに答えて利益を上げる組織である)マスコミは報道しないという理屈も成り立つ。
また、大量の法律知識を必要とするから、素人には理解できなくて当然だということもある。そして、そういうことは専門家に任せておけばよいという意見ももっともだ。
しかし、他人事のように距離を置くのではなく、社会の一員として「裁判がきっちり行われているか確認」(p.263)するという最低限の参加方法は、積極的に行うべきだと、僕も思う。
全体を通すと、ちょっと推敲が足りないのか、日本語が変な部分が散見された(当方も人のことは言えないが)が、冷静な分析と熱い心情の吐露が上手い具合にミックスされていて、グッっとくる新書だった。