『銀河鉄道999』を観た

1980年代までは鉄道の旅立ちと哀愁というのが多くのジャンルの創作作品のモチーフだったと思うのです。
歌で言えば、『木綿のハンカチーフ』とか『あずさ2号』とか『津軽海峡・冬景色』とか『心の旅』とか。具体的にどれとは言えないけれど、僕より上の世代のエッセイなんかを読むと、「田舎から夜汽車に乗って都会に出た時のことは忘れない。希望と不安でいっぱいだった」みたいな話がよくあるし。
いろいろあると思うけれど、僕は鉄道は「別離」のメタファーだったと思ってる。

当時、少年だった僕も「そういうもんかな。僕もいつかそういう経験をするのかな。切ない別れがあるんだろうな」なんて思っていたりしていたわけで。
18歳で進学(予備校って進学になるの?まぁ進学でいいや)のために実家を出た時は、親の車で下宿先まで送られたので、結局そういう経験はしなかったのだけれど。
就職で北海道を出た時は、飛行機だったし、いろいろな事情で一人ではなかったので、いまひとつ感慨もなかったような気もするわけで。

それから、1990年代からは鉄道の位置づけに関する世間の見方も変化したんじゃないかと思っている。
山下達郎の『クリスマス・イブ』をBGMに、牧瀬里穂が遠距離恋愛の恋人を待つという有名な新幹線のCM。このあたりから、鉄道は人々の別離の象徴ではなく、離れた人と簡単に再会できるという意味付けになったような気がする。
2000年代に新幹線のテーマ曲になったTOKIOの『AMBITIOUS JAPAN!』もかなりポジティブで希望のある曲調だし。
#牧瀬里穂のCMについては、’89 牧瀬里穂のJR東海クリスマスエクスプレスのCMが良すぎて書き殴ってしまったってのがめっちゃ面白いよね。

そんな僕の感じる世相の流れの中、やはり”哀愁の鉄道”に触れたくて『銀河鉄道999』を観たわけです。もう二度と故郷に帰れないかもしれない、そんな哀愁を感じたくて。

この映画の世界では、貧富の差が著しく激しくなっている。上流階級は、自分の身体を機械化して永遠の命を手に入れ、裕福で享楽的な生活を送っている。一方、下層民たちは、寿命のある生身の身体のまま、スラム街で蔑まれ差別されながら生きている。

主人公・鉄郎(野沢雅子)は、母親とふたりきりで貧しい生活をしていた。しかし、母親は機械人のレジャー・ハンティングの餌食となって殺され、剥製にされてしまった。鉄郎は、自らを機械化して復讐することを誓う。しかし、機械人間になるためには莫大なカネが必要であり、それがかなわない。無料で機械化手術をしてくれる星があると聞き、そこへの旅費を稼ぐために機械人相手の強盗としてスラム街で暮らしている。

ある日、鉄郎は警察に追われているところを謎の美女・メーテル(池田昌子)に救われる。しかも彼女は機械化手術をしてくれる星へ旅をする予定であり、鉄郎がボディガードを引き受けるなら旅行チケットを用意してくれるという。多少不審な点はあるものの、背に腹は代えられない鉄郎は彼女と一緒に旅立つことにする。

旅の途中で、鉄郎は様々な人間に出会う。生身の体もいれば、機械化して永遠の命を得た者もいる。双方と交流するうちに、鉄郎はどちらの立場にも希望と絶望のあることを知り、葛藤を抱えることになる。
・・・そんなお話。

実は僕は、テレビシリーズも原作映画もほとんど見ていない。それでも、大まかなストーリーやメーテルの正体はどこかで聞きかじっていて、おおよそ知っていたけれど。
それでも、なかなか引き込まれる良い映画だったと思います。
冒頭とエンディングのナレーションが、とにかくロマンチックでかっこいい。日常生活で使うにはキザすぎるけれど、いざという時にああいう言葉がスッと出てくるくらいの頭の回転がほしい。

あと、もう一つ、最初の1分で感激したのが、999のヘッドライトの光がゴーストになったこと。ゴーストってのは、カメラで撮影した時に、強い光がカメラ内で反射して周囲にひし形のようなものが写るあれ(wikipedia で写真例を見てください)。本作は実写映画ではないのだから原理的にゴーストは写るはずがなく、わざわざゴーストが発生したように絵が描かれていたわけで。
それを観た瞬間、
「あなたはこの世界に紛れ込んで現場で目撃している人間ではなく、カメラを通した外部の観察者なのです」
と言い含められていると感じた。
現場の目撃者であれ、外部の観察者であれ、視覚的に得られる情報はそりゃほとんど同じなのだけれど。同じなんだけれど、なんだか「よし、より冷静に客観的に見てやるぞ」って気になって、僕にはそれがなんだか心地よかった。

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