元来、軟弱貧弱インドア派の当方なのでスポーツ全般がダメ。太陽の直射日光も苦手だし、道産子のくせに風雪にも弱い。小中学生の頃から、学校行事の遠足とかも嫌いだった。だって疲れるもん。
だから、自分が山登りしようなんてことはこれっぽっちも思ったことがないし、山登りする人の気持ちなんてものも理解できなかった。
小学校に入る前のことだから記憶に間違いがあるかもしれないが、親から見せられたある新聞記事が頭の片隅にこびりついている。七三分けで太い黒縁の眼鏡をかけた、線が細くて生真面目そうな男性が、キメの荒い白黒写真で掲載されている記事だ。
その人物が山で遭難し、亡くなったことを知らせる記事だ。僕は一度もあったことのない人物なのだが、父の義弟とのことだ。僕の叔父にあたる人物だ。
僕のイトコにあたる姉弟が残され、叔母は寡婦として苦労しながら彼らを育てたようだ。遭難事故から数年経ち、その家に初めて遊びに行ったのだが、家のテレビが小さな白黒テレビでビックリした。時代は1980年代中期であったが、現在に至るまで僕はその家以外で本物の白黒テレビを見たことは一度も無い。叔母は僕の父の妹のはずなのに、とても老けて見えた。
親戚一同が集まっても、その叔父が話題にのぼったことは、良いことも悪いことも、中立的なことも含めて僕の知る限り一度も無い。
その一家が白黒テレビしか所有していないのだと知ったのと前後して、冒険家の植村直己(wikipediaで調べる)が北米マッキンリーで消息を絶ったということが日本で大きく報道されていたりもした。彼の遭難は国民に大きなショックを与えたようだ。僕は子供で細かいことはよくわからなかったが、人々が衝撃を受けている姿を見て、なんだかとんでもないことが起きたのだろうと、同じようにショックを受けていた。
これらの少年期の経験により、僕は登山という行為も登山家という人々にも、どこか良くない印象を抱いていた。
ところが、今日、その食わず嫌いがずいぶんと緩和された。
先日も紹介したが、栗城史多という青年が、エベレストへの単独登頂をネット中継するなどして、話題になっている。今週はNHKで特集番組「7サミット 極限への挑戦」も放映された。
本来ならば、僕は彼に対して興味を抱かなかっただろうけれど、偶然「知り合いの知り合い」という近い関係にあったので番組を見た。最初は義理半分で見ていたのだけれど、なかなか良い番組だった。
先月、本人の著書『一歩を越える勇気』も出たそうなのだけれど、自称アンチ登山家の当方なのであまり読む気はしなくて、スルー状態だった。
そのくせ、amazon アフィリエイトだけは貼っておいたりした、当方のセコさ加減だけれど。しかも、3冊も売れちゃってほくそ笑んだりしてたけど。
3冊売れたんだけれど、どうも amazon では在庫切れで注文を受け付けても発送日未定の状態になっていたようだ(増刷されて、今日の段階では1週間くらいで発送できる状態になっていたようだが)。
そんな入手困難な本が、なにげに立ち寄った旭屋書店・奈良登美ヶ丘店(イオン3F)で平積みに鳴っているのを発見(その時のレポート)。
なんとなく「アンチ登山家も年貢の納め時かな」と思って購入。読んでみた。
第1章、栗城氏の海外初登頂は北米マッキンリーとある。僕が小学生の時に植村直己が帰らぬ人となったあのマッキンリーだ。今、栗城氏が本を著しているのだから、彼が生還したことは明らかなのだが、なんとなく手に汗握って読んでしまう。
しかも、どんなに周りから反対されたかということが綴られている。もしその時に彼と話をする機会があったら、僕もきっと反対を表明していただろう。夫が山で遭難死した親戚の例を出して、遺族がどんな苦しみを味わうかを説教臭く話したんだろうな、と。
けれども、『一歩を越える勇気』を読み終える頃には、命知らずの冒険に出かける人を安全なところから批判するとは、なんたる侮辱だろうかと反省するようになってしまった。
栗城氏に「死」を語ることは釈迦に説法だ。幸いにして僕はこれまでの人生で死の恐怖を味わったことは無いのだが、彼はその境地を何度も乗り越えてきているのだ。
そして彼は
「死」と隣り合わせになることで「生」を感じ、生きていることへの感謝の気持ちが出てくるのだ。
とはっきり言い切っている(p.57)。
自分が死と隣り合わせになったことはないことは自覚していたけれど、それが無いことで確かに生きることへの感謝の気持ちも持ったことがなかった。
たいへんに、襟を正すべき気持ちにされた1文だった。
栗城氏の1冊を「ああ、いい本を読んだ」と思って放心しているところに、ネット通販からの小包が届いた。
封を解くと、石塚真一『岳』というマンガだった。
同書は当blogのコメント欄で、数日前に a2cさんが推薦してくださったものだ。
昨日までの僕はアンチ登山派だったので、内心「どーせ面白くないんだろうな」と思いつつも、薦めてもらった義理で一応読んでみなきゃなとも思ったという、後ろ向きな動機というのが正直なところ。現在10巻くらいまで出ているようだが、ハズれても良いように1巻だけ注文しておいたのだ。
読んでみたら、これがなかなかのヒット作だった。
主人公は、フリーランスで山岳レスキューをしている男。細かい経歴は不明だが、過去には国外の山岳レスキュー隊で活躍しており人脈も豊富らしい。
そしてなにより、彼の能力は超人的。険しい絶壁でも臆することなく登っていくし、警察の救助隊が出動を躊躇するような雪山でも、彼は単身で救助に向かう。
まぁ、彼の超人性はマンガだから・・・。
いや、マンガの中の超人的人物なのだが、時には冷徹な判断力が物語にうまく深みを与えている。
自分や仲間、もしくは他の遭難者の命に危険が迫った場合には、彼は躊躇なく一部の遭難者を見捨ててしまう。主人公は飄々とし一瞬にしてその冷徹な判断を下すのだが、時折見せる深い人間愛との対比がよいスパイスになっていて、陳腐どころか、一流の人間ドラマになっている。
この主人公も、栗城氏の著書と同じように、「死」を見つめることで「生」への活力が生まれるという視点を有しているようだ。
そうか、それが登山家の魂が凡人よりもちょっとだけ清らかなポイントなんだな、と悟った。
親戚一同から「そもそもいなかった人」という扱いを受けている、遭難死した叔父であるが、そしてそんなことは不可能であることはわかるが、一度彼から「人の生き方」のレクチャーを受けてみたかったと、3回目の年男を迎えた今、ちらりと思う。
正直、この本には興味なかったんだけど、ちょっと読んでみようかという気になりました。
ところで、だいぶポイントがズレてしまいますが…、
うちにも親戚一同から「最初からいなかった人」扱いされている叔父さんがいます。僕が4才頃に「不慮の事故」で亡くなった人です。
長い間僕は父の兄弟姉妹がこの人について一切口にしないことに憤りを感じていました。その人は25年間ちゃんと生きてきたのに、その存在を無視するように扱うのはその人の人生に対する侮辱ではないかと思っていたからです。
ところが、その叔父さんが亡くなって12年が3回りくらいして、父の兄弟姉妹が70代前後になって、ポツリポツリとその人のことを口にする例を見かけるようになりました。
そのときになって、彼らは自分の弟のことを無視していたわけではなくて(考えてみれば、そんなことできるはずがない)、非常に強い葛藤(「自分にはもう少し何か出来たんじゃないか」と自分自身を責めたり、(愛情の裏返し的に)「あいつバカなことしやがって」と怒ったり)に圧倒されて彼のことを口にする余裕がなかったんだ、ということに気づきました。彼の死を受け容れるのに40年近くかかったのかもしれない。そう思うと、「簡単に無視して」と憤っていた自分の方が浅はかだったのかな、とも思います。
と言うわけで、遭難死したおじさんのことを口にしない親戚の方々もおそらく大変な葛藤をいまだ抱え続けているんじゃないかと思うんですよね。個人的に誰か1人つかまえて「亡くなったおじさんはどんな人だったのか」とか聞いてみると、その人に対する複雑な想いを吐露する人もいるだろうと思います。で、それはそれで、人生に関する含蓄に富んだ話を聞けるのではないか、という気がします。(結局、だいぶポイントずれちゃいました。)
いいお話をありがとうございます。
僕の叔父が亡くなってからもう30年ちかく経っています。親戚一同の葛藤もかなり解決されていて、聞けば何か話してくれるかもしれない。それはそれで、確かに聞いてみる価値があるかもしれない、と思います。
でも、今の僕の心境は、麓から山を見上げる人じゃなくて、山から麓を見下ろす人から直に話を聞きたいという感じなんです。
亡くなった人がどういう人であったかという周囲のコメントには興味があまりなくて、亡くなった人本人の人生観を本人から聞きたいっつーか。
うん、そうですよね。あんまりそういう人いないし。
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