博士が100にんいるむらという電子絵本があるそうで。
100にんのはくしがうまれたら、8人がかいしゃにととめて
11人がこうむいんです。
(中略)
かいしゃいんもだいたいだいじょうぶ。
ふつうのひとにもどれたしあわせなひとたちです。
うーむ、自分を幸せと慰めておこう。
同童話によると、100人中16人が無職で、それ以外に8人が行方不明か死亡だそうです。
うーん、切ない。
なお、この童話のデータは、おそらく2000年代のデータを基づいていると思われますが、1950年代に博士になった人たちを基にすると、彼らの末路はどうなっているんでしょうか。
1950年代に博士になった人を扱った小説(フィクション)が小川洋子著「博士の愛した数式」です。
主人公は20代半ばの家政婦の女性。この女性の新たな派遣先は、初老の男性で数学(数論)を修めた「博士」。
ただし、この博士は若いころに交通事故に巻き込まれ、脳に障害を負ってしまったせいで、80分しか記憶が持続しなくなってしまう。
たとえば、毎朝家政婦が尋ねてきても、前日のことは一切覚えていないので、毎日同じように初対面の挨拶を交わしたり。
そんなわけで、彼は体中に必要なことを書き付けたメモを貼り付けて生活していたり。
怪我を負う前の記憶はきちんと残っているので、ていうか、記憶がそこで止まっているので、いまだにタイガース時代の江夏投手の大ファンだったり。
博士は、普段はぶっきらぼうで人付き合いがダメダメなのに、どういうわけか子供は大好きで。
家政婦の息子で、小学校に通う「ルート」(頭が平らで、ルート記号に似てるので博士がニックネームをつけた)には目に入れても痛くない孫のように接してみたり。
年齢も、プロ野球の記憶にも、大きな隔たりのある2人なのに、妙に意気投合しちゃったり。
安っぽいお話だと、「きっと、博士と家政婦が、年齢と障害を乗り越えて、恋に落ちるお話なんだろうなぁ」とこれまた安っぽい予想を立てて読むところですが、いい感じにその予想は裏切られます(ネタバレごめんなさい)。
むしろ博士は、事故当時に惚れていた女性がいて、その人のことを40年近くも愛し続けているようです。
ていうか、記憶がないので、その人以外を愛することはできないようですが(ネタバレごめんなさい)。
さてさて、80分しか記憶の残らない博士のことを、僕らは憐憫の情をもって見るべきなんだろうか。
人間生きてりゃ、毎日いやな目に遭ったりするわけで、そんな目に遭っちゃうとウジウジしちゃって悲しくなったり、胃が痛くなったり、毎晩酒飲みながら愚痴りたくなったりしちゃうわけで。
そういう暗いこととは無縁の博士はある意味幸せなのかもしれない。
結構じゃん、80分の記憶。
ああ、それでも、人間生きてりゃ、町でちょっと綺麗な女性と意気投合しちゃったり、自分の書いた論文が賞をとったりなんて嬉しいことも、たまにはあったりして、それを思い出していい気分になったりすることもあるんといえばあるんだけれど、それすら思い出せなくなっちゃうんだな。
それはちょっとイヤだな。
年末ジャンボ宝くじで1等があたっても、それを換金しに行くことを忘れちゃうんだな(当選番号を見よ。その後、この画像を見よ。うらやましい)。
なにはともあれ、記憶が正常な現在の境遇をありがたく思うことにしよう(それでも、自分に都合の悪いことを積極的に忘れることに関しては定評のある当方ですが)。
で、この小説、博士と家政婦と息子のルートの3人を軸に、奇妙だけれど温かみのあるストーリーで展開する、なかなかの作品です。
小川氏の文章も、温かみのある表現で好感が持てます。
いろいろ紹介したいフレーズはあるわけですが、僕は冒頭にある、博士が家政婦親子に虚数を教えているシーンが好きです。
「とても遠慮深い数字だからね、目に付くところには姿を現さないけれど、ちゃんと我々の心の中にあって、その小さな両手で世界を支えているのだ」
ここでは虚数の話ですが、ストーリー全体に照らし合わせると、博士の心の中でひっそりと彼の世界を支えていたのは何だったのだろう、と考え込みながら読んだわけです、僕は。
寺尾聰、深津絵里出演で映画も公開されますね。
心温まるフィクションでした。
かいしゃにつとめているはかせのなかで
せきにすわっていても
こころはゆくえふめいのひともいますね
まつさんはしあわせですよ
どもです。
今日の昼には、つかぬ事をお聞きして申し訳ありませんでした。
本、読みました。
ルート君くらいの年齢の時に
数学について熱く語ってくれる
博士みたいな人と出会えていたら
今頃数学が大好きだったんだろうなと
思います。
映画も見たいです。
まずは、九九の7の段の練習からだと思いますよ。;-p