本日放送のNHK朝の連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』で、中納言行平(在原行平)の和歌が登場した。
立ち別れ 因幡の山の峰に生うる まつとし聞かば 今帰り来む
その歌のことを向井理演じる水木しげるが、迷い猫が返ってくるように願うおまじないであると言うシーンがあった(参考: 当方のまとめ記事)。
今朝の放送を見た時、内田百閒の『ノラや』という本の中で読んだことがあるような気がした。その時は出勤前で余裕が無かったのだが、時間ができたので調べてみた。わかったことを以下に記す。
本題に入る前に、『ノラや』の内容について簡単に触れる。
内田百閒が自分の身の回りに起きたことについて、創作無しで発表したものである。
いつも家にやって来る野良子猫に「ノラ」という名前をつけ、可愛がって飼い始める。しかし、ある日忽然と姿を消す。それから内田は意気消沈する一方、捜索チラシを新聞折込で配布したり、ラジオ放送で呼びかけてもらったりと、とてつもない騒動になっていく。天邪鬼で飄々とし、ユーモアたっぷりの文章を書く内田が、猫の失踪でしょげかえる姿は、滑稽でありながら、読む者の哀愁を誘う。
なお、僕の持っている中公文庫版には、ノラの後に飼い始めた「クルツ」に関する一連の文章も収録されている。その猫が弱っていき、ついには死んでしまうという、悲しい物語だ。
さて、同書に記された「猫が帰るおまじない」について僕が見つけた箇所を列挙しよう。
初めは、中央文庫版p.74。新聞折込広告を配布するも見つからず、内田百閒が2度目のt広告を作成するくだり。チラシの外枠におまじないを書き込んだらしい。
ぐるりの枠に猫が帰るおまじなひの「たちわかれいなばの山のみねにおふる、まつとしきかばいまかへり来む」の歌を、赤色の凸版で刷り込んだ。
なお、この時のチラシの実物は、モノクロ写真ではあるが、『作家の猫』(ISBN 4-582-63422-2)というムック本で見ることができる(p.43)。
本文中で僕が見つけられたのは、この箇所だけだった。
ちなみに、この平山という人物は、日本初の鉄オタ文学だと言われている、内田百閒『阿房列車』で毎回お供をしている「ヒマラヤ山系」氏である。
平山によれば、最初に刊行された『ノラや』のトビラに、猫帰りのおまじないが書かれていたそうだ(中公文庫版p.312)。僕の所有している中公文庫版にはその箇所がない。
三十二年秋に刊行された『ノラや』(文芸春秋社)は、真っ赤な背に金文字、白の表紙の開巻第一頁のトビラに、
オマジナヒたちわかれいなばの山のみねにおふるまつとしきかばいまかへり来む―
と朱で、著者の筆蹟で書名の周囲をかこんで刷り込んである。
つまり、近所に配布したチラシと似たデザインであったものと想像される。
なお、『ノラや』の発行は昭和32年秋であるが、ノラを飼い始めたのが昭和30年(?)、失踪したのが昭和32年3月27日であったようだ。
さて、こうして見てみると、「立ち別れ・・・」の和歌を猫帰りのおまじないであると最初に言い出したのは内田百閒のように思われる。
しかし、当時の俗信としてある程度流布していたようだ。
実際、平山の解説には、市井の人から届いたという手紙の文面が転載されている(中公文庫版p.315)。
(麹町一丁目より)・・・・・・御まじないは(まつとしきかば今かへりこむ)だけを小さい紙に書き玄関の柱の下のほうへ人目にかからぬよう張っておくとの事で、人に知られては効が尠いといわれ、私の家でもこうしておきまして三十八日目に帰ったことが御座います。
同じ和歌を使いながらも、下の句だけを使ったり、人に見せないようにする(内田はビラに書いて配りまくった)などの違いがある。つまり、当時いくつかのバリエーションが流布していたことの証拠であり、内田が発祥だとは全く言えない。
そして、この麹町の人が指摘する通り、効力が弱くてノラがついに帰ってこなかったことは不幸だ。
さて、今朝の『ゲゲゲの女房』では、金に困って嫁入り道具の大切な着物を質入する。それをきっと取り戻せるようにと、「立ち別れ・・・」の歌を書いた紙を着物に挟んで質屋に持っていくという話だった。
麹町の人の説に従うなら、(1)上の句を含めすべて書いた、(2)質屋の主人にまで目撃された、という2点からして水木しげるは大失敗したわけだ。
無事に着物は取り戻せるんでしょうか。