昨日からどうもコンタクトレンズの調子が悪くて目がゴロゴロと痛くて、その痛みのせいか頭痛もしていて、どうにも発言がネガティブになったりイライラしていたりムッツリしていたりするのだけれど、それは全てコンタクトの調子が悪いせいであって、特定の何かや誰かに腹を立てているわけではないと理解して欲しいと思っている当方が、NHK朝の連続テレビ小説『とと姉ちゃん』の第1回めの放送を見ましたよ。
昭和5年(1930年)、静岡県浜松。
同地は、江戸時代から綿花の栽培が盛んで、今では綿織物や染色業で栄えていた。
小橋常子(内田未来)は作文の宿題が課されていた。「きれいなもの」という題で作文を書かなくてはならない。常子は周囲の風景のことを気に入っており、それを作文に書こうと考えた。
ただし、地面から風景を見ていても当たり前である。もっと高いところから眺めれば、もっときれいな風景が見えるに違いないと考えた。そこで、染めた綿織物を干すための櫓に登って周囲を見渡すことにした。この付近では櫓がもっとも高い建物だからだ。
職人たちや妹たちが止めるのも聞かず、常子ははしごを登った。
櫓のてっぺんに立つと、遠くまでよく見えた。風になびく織物がまるで万華鏡のようであり、それは美しい風景だった。常子は感動した。
しかし、我に返った常子は恐ろしくなった。あまりの高さに目がくらみ、一人では降りられなくなってしまった。
大騒ぎになった。
常子の父・竹蔵(西島秀俊)は地域で一番大きな染色工場の営業課長として働いていた。
常子が櫓に登って騒ぎになっているという話がすぐに伝えられた。竹蔵は立場上、染色職人たちとの関係を大切にしている。自分の娘が騒ぎを迷惑をかけたことを知り、大急ぎで現場に駆けつけた。
常子は無事に救出されたが、竹蔵は職人たちに深く頭を下げて誤った。
常子に対しては、危ないことや人に迷惑をかけることは厳に慎むよう伝えていたはずだと言って叱った。
一方で、宿題をこなすためにどうすればよいか、自分で考え行動したことは偉いと言って竹蔵は常子を褒めた。
この時代は家父長権が強く、一般的に父親は家庭の中で畏怖される存在だった。
ところが、竹蔵は誰に対しても威張るようなところは少しもなく、家族に対しても柔和に接していた。自分の幼い娘達に対しても、常に敬語で優しく話しかけるのだった。
竹蔵は3つの家訓を定めており、自ら率先してそれを守っていた。
3つの家訓:
・朝食は家族皆で取る
・月に一度、家族皆で出かける
・自分の服は自分でたたむこと
ある土曜の朝、家訓通りに家族で食卓を囲んでいた。
前の晩、遅くまで仕事だった竹蔵は眠くて目をこすってばかりいたが、家族との朝食を優先していた。
明日の日曜は、家族全員で紅葉狩りに行く約束をしていた。家訓の2つめを実行するためだ。
常子はもちろん、妻・君子(木村多江)や常子の妹である鞠子(須田琥珀)や美子(川上凛子)もたいへん楽しみにしていた。
その日の夜、竹蔵は社長・杉野(田山涼成)と共に、紡績業の最大手企業・西洋紡の専務・大迫(ラサール石井)の接待会食に出向いた。竹蔵の会社は西洋紡との取引契約を結ぼうと奮闘している最中であり、今日の接待はとても重要なものであった。西洋紡との取引を望む企業は多く、競争が激しい中、重大な機会なのである。
竹蔵は帰宅するなり、沈んだ顔で家族に謝った。
翌日に予定していた紅葉狩りに行けなくなってしまったというのだ。
初めて家訓が破られた。
主人公・小橋常子は成長すると高畑充希になります。
ドラマの概要としては、父・竹蔵(西島秀俊)が早くに亡くなり、常子が父親代わりとして家族を支えるという物語だそうです。『とと姉ちゃん』の「とと」とは父という意味。
そして、常子は最終的に雑誌を創刊するそうです。
『あなたの暮らし』という生活総合雑誌で、『暮しの手帖』がモデルだそうです。
子役時代が昭和5年(1930年)で、雑誌創刊が昭和33年(1958年)という時間の流れです。
さて、1回めの放送の感想ですが。。。
明日のブログ更新はなさそうです。察してください。