ダコタハウスで捕まえて

本日は12月8日である。この日だけは私にとって何よりも象徴的な日である。そう、日本の終戦記念日であると同時に、私がbmbさんから村上春樹の「遠い太鼓」を勧められた日から113日経過した日なのである。この事実から分かることは、大和郡山市のとある書店で村上春樹の「遠い太鼓」を購入し、想像していたよりも分厚い文庫本にちょっとびっくりし、おっかなびっくり最初からページを手繰り始めたのだが、ものの数ページも読んだところで面白いエッセイ集だということが分かって、一気に読み終えたあの夏からすでに4ヶ月近く経ってしまったということである。その4ヶ月近くの間、僕がどんな新しいカフェで夏の暑さをやり過ごし、木の葉舞い散る散歩道でどんな美しい少女に恋をしてそして破れたかとか、いわゆるデビッド・カッパーフィールド式のくだんないことから書き始めねばならないのかもしれないが、その手の話をする気にはなれない。そんなことを書き連ねたところで退屈であくびが出るばかりだし、それにだいたい、僕が先日の名古屋出張へ持っていったスーツケースがうちのネコの爪とぎ代わりに使われていて、あちこちほつれているなんてことを知ったところで、君の知的好奇心が満たされるわけでもあるまい。


そうそう、書き忘れていたが、今日はマーク・チャップマンがジョン・レノンを射殺した日でもある。世間一般には、ジョン・レノンが40歳の若さでその命が絶たれ、ビートルズの再結成への夢が絶たれた日であると認識されている。ビートルズを愛し、ジョンの平和へのメッセージに共感する人々の希望が失われた、象徴的な日なのである。文字通り、人々の希望を打ち砕く5発の銃弾の引き鉄をひいたマーク・チャップマンがジョンの住居であるダコタハウス前で捕まった、あの日なのである。
なお、マーク・チャップマンがジョンを射殺した日は日本時間で12月9日なので正確には12月9日にマーク・チャップマンの所業を思い出すのが正しい。森で屁をこくの人もそう指摘しているし、僕も過去3年間はその手続きを守ってきた(去年一昨年一昨々年)のだが、今年は絶対時間の正確性よりも表記の一致性を優先してみた。そんなわけで「ジョンレノンに・・・」というお決まりのタイトルもつけないことにした。

さて、マーク・チャップマンのジョン・レノン射殺については、様々な憶測が流れた。特に、ジョンが政治運動(特にアメリカ政府批判)を行っていたことに対する言論封じのための暗殺ではないか、政府が裏で手を引いているのではないかとまことしやかに語られたりしたこともあった。現在では、そのような黒幕はおらず、あくまでマーク・チャップマンが独自に計画して行ったものであるとの見方が有力であるようだ。ただ、僕は個人的にマーク・チャップマンの背後で暗殺を立案した人物がいるかどうかといったことは、別にどうでもいいことだと思っている。仮にそういう黒幕がいたところで、ジョンが生き返るわけでもないし、その黒幕を殺したわけで溜飲が下がるわけでもなし。そもそも、藪の中をいくらつついたところで、もうきっと真相はわからんだろうし、どうでもいい。正直なところ。
それよりも、歴史的事実として疑いのない所にはとても興味を持っている。マーク・チャップマンはジョンを射殺した後、逃走しようとはしなかった。現場を離れる代わりに、その場に留まって本を読み始めた。その奇妙な行動は、事実として広く知られている。そして、マーク・チャップマンがその時読んでいた本が何であるかも分かっている。
The Catcher in the Rye J. D. Salinger
日本でも『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝・訳)という翻訳で有名な小説である。

僕がジョン・レノンに熱中したのは中学3年生くらいの頃で、今から16年か17年くらい前の頃である。そうやって自分の年齢や過ごしてきた時間を考えると、あまりに迫力のない人生を送ってきたことを思い出して、年齢の数だけ壁に思いっきり頭を打ち付けたくなっちゃうけど。ただ、そういうことをやる活力も忍耐力もなかったおかげで、今日まで生きてこれたのかもしれないと思えば、自分の人生の迫力のなさに感謝もしたいし、年の数の2倍だけハグしてほっぺにキスしてもいいかもしれない。僕の人生のどこにほっぺがあるのかは知らないけれど。

そういう何かを始める活力のない人間だったので、マーク・チャップマンが事件後に読んでいたという『ライ麦畑でつかまえて』という本がどういう内容のものであるか、人生の半分の時間だけずーっと気になっていたのだけれど、一度も読んでみたことがなかった。聞きかじった話では、ある若者がへんちくりんな妄想をしたり、反社会的な行動を起こしたりする内容の本らしかったし。マーク・チャップマンはこの本から影響を受けてあの事件を起こしたと語られていたし。こんなこと言うと自分の恥部をさらすようで恥ずかしいのだが、僕はどちらかというと感受性がちょっぴり豊かかもしれない部類の人間なので、そういう本を読むとすぐに感化されて、同じようなことをしてしまう。実際、ジョン・レノンのあこがれて長髪に丸眼鏡姿になっていたこともあるくらいだから。幸いにして自宅マンション前で誰かに銃で撃ち殺されるという不幸に遭うことはなかったけれど、小汚い格好でまったく女の子にもてないという寂しい青春時代を数年間過ごす羽目になった。なんでジョンの長髪・丸眼鏡はかっこよくて、僕の長髪・丸眼鏡はイケてないんだよ。世の中の女性は、その理由を100文字以内に完結にまとめて僕にレポートを提出すべきだ。いや、実際受け取ると、首をくくりたくなるくらい落ち込むだろうから、本当は送って欲しくはないけれど。

今はもう33歳にもなって、さすがにちょっと小説を読んだくらいでは変に感化されることはなくなった。事件当時のマーク・チャップマンの年齢(25歳)も超えた僕なので、彼のように小説から影響を受けて反社会的な行動をとるようなことをしない分別を持っている自信もある。

先週、たまたま奈良市内の某書店をブラブラ徘徊していた。ものすごく時間がたくさんあったので、隅から隅まで文学コーナーの棚を見て回った。その中で、村上春樹・訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が並べてあるのを発見した。そういえば、夏に読んだ村上春樹のエッセイ『遠い太鼓』の中でも「グレート・ギャツビー」と並んで「ライ麦・・・」はお気に入りの作品だと書いてあったような気がする(今、『遠い太鼓』を手元でパラパラしたけれど、本当に書いてあるかどうかは分からなかった。分厚いから探す気力が萎えた)。「ライ麦・・・」はいくつかの翻訳版が出ているが、村上春樹バージョン『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を手にとって読んでみることにした。

まず驚いたことは、冒頭の文章に激しく見覚えがあったことである。自分の半生についてデビット・カッパフィールドのようにあれこれ書くのはイヤだ、というアレ。どこで見たんだろうと思って調べたところ、森見登美彦の『太陽の塔』の冒頭だった。デビット・カッパフィールドというのが、ディケンズというイギリス人作家の有名作品だということはさっきwikipediaで調べて知ったけれど、そうか森見の『太陽の塔』は「ライ麦・・・」のパロディで始まってるのかと納得して笑った。もう、それだけで随分『キャッチャー・・・』を読んだ元をとったと思った。たった1ページなのに。

以後は本を読む手を止められなくなって、一気に読み上げてしまった。
事前にある若者がへんちくりんな妄想をしたり、反社会的な行動を起こしたりする内容と思い込んでいたのだが、まぁそれほど外れてはいないと思った。思春期に、今よりももっと多感で、そしてなんとなく世の中に不条理を感じるような境遇でこの小説を読んでいたら、もしかしたら僕も(今より)もっとファンキーな人生を送る羽目になっていたかもしれない。本当のところ。

しかし、やはりそれなりに分別の分かる年齢に達してから読んだので、本書の主人公のホールデンのように学校を飛び出して退廃的に街をうろつくようなマネはしないで済んだと、ほっと胸をなでおろしている。あえて言うなら、本書全体の文章スタイルである、ブロークンでニヒルな口語体をちょっぴりマネしたくなったりした程度である。1年後、自分でこの文章を読み返したら、あまりの青臭さに自分の年齢の数だけケロッピしてしまいそうだけれど。

さて、原著が1945年に発表され、半世紀以上も読み継がれている「ライ麦・・・」なのだが、どこが面白いのかと聞かれると、どこが面白いのか分からない。話に起伏もないし、オチもないので、もしかしたら面白くない部類に入るのかもしれない。
しかし、いったん読み始めると、読む手を止められないのも事実。そして、それは客観的な事実なのだろう。そうじゃなきゃ、50年以上も世界中で売れ続けるとは思えないし。

ていうか、主人公ホールデンがグダグダと自分の周りの人々のことを、読者に向けて砕けた表現で語り続けるという体裁の物語であり、そういう意味では、当blogのようなグダグダ文章なんかを根気良く読み続けるだけの忍耐力を持っている読者諸氏なら、この小説も難なく読みこなせる。
そして、当blogのような似非ブロークン・ジャパニーズに吐き気を催すことなく読み続ける寛容さを持っている読者諸氏なら、プロが書いたブロークン・ジャパニーズとして面白く読めると思う。

そして、ジョン・レノン射殺後におもむろに “The Catcher in the Rye” を読み始めたマーク・チャップマンであるが、本書の主人公ホールデン・コールフィールドと重なって見えなくもない気がしてきた。
ただし、「ライ麦・・・」の中の彼が口ばっかりでかいくせに自分では何もできないチキン野郎であるのに対して、マーク・チャップマンは事の善悪は別として、何かをやれた男なので、全然違うタイプだと思った。

思ったからどうだってことはないんだけれど。

なお、12月5日から「チャプター27」という映画が公開されるらしい。
ジョン・レノン射殺犯であるマーク・チャップマンに焦点を当てた映画。小道具として、”The Catcher in the Rye” もきちんと出てくる様子。どこまでがフィクションの映画なのか分からないが、ものすごく興味があるので絶対に見に行く。
ちなみに、『ライ麦畑でつかまえて』は全26章。「ライ麦・・・」の続編の1章がマーク・チャップマンの物語であるという趣向か。

また、今日からは「PEACE BED アメリカ VS ジョン・レノン」が上映開始。
先の「チャプター27」にはヨーコ・オノがノータッチっぽいが、こちらの映画はヨーコが絡んでるらしい。そういう意味では、正統なジョン・レノン映画と言えるかも。
言えるんだけれど、それほど興味を魅かれていない僕がいる。今さらジョンの政治活動に興味はないし。死後27年も経っており、状況はいろいろ変わっているし。一部、彼がベトナム戦争に猛反対したことを引っ張り出してきて、ブッシュのイラク問題にこじつける話もあるけれど、なんだかジョンが広告塔に使われているだけで、どことなく空虚に見えてくるし。
思想もクソもありゃしない、客寄せパンダのピースベッドに軽くイラッと来ていたり。いや、ジョンとヨーコのベッドインもセンセーショナルさを狙ったプロモーションだけれどさ、もうちょっと中身はあったと思うぞ。そこで作った “Give Peace A Chance” は今でもメッセージソングとして歌い継がれているし。それに引き換え、高橋ジョージ夫妻の「ケンカしたりストレスがたまったときはティッシュペーパーを思いっきり投げます。スッキリしたらまた拾って再利用するので、エコでラブ&ピースな家族です」って、なんだよそれ。

そんなわけで、”PEACE BED” の方はあんまり面白そうとは思えない。でも、一応見に行く。これから。18:30 橿原で。

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