映画化されるってんで、また読み返していますよ。
『バーにかかってきた電話』 pp.7-9
「はい、お電話替わりました」
と俺が言うと、ちょっとかすれたような女の声が聞こえた。
「もしもし、私、コンドウキョウコですけど」
十分の一秒ほど、俺の頭は空白になった。
コンドウキョウコ。全然知らない名前だ。
次の十分の一秒ほど、俺は自分の頭の中の引き出しをがさがさと手当たり次第片っ端からかきまわした。
コンドウキョウコ。全然思い当たらない。そこで、とりあえず俺は当たり障りのない返事をした。
「いよーっ!どうしてる?元気?今、どこにいるの?こっち来ない?」
とたんに受話器の向こうからとっても深い溜息が聞こえてきた。それで、俺は自分が間違ったことを言ったということがわかった。
「……ええと、あの、もしもし、どちらのコンドウキョウコさんでしょうか。失礼ですけど」
「ツウチョウ、まだ見てないんですか?」
「ツウチョウ?ああ、銀行の?はい、あの、うん、ええ、今日はまだ」
「今日はまだって、あのねぇ、今、午後十一時ですよ」
「あ、そうなんですか」
思わず間抜けな返事をしちまった。
「ホントに……だらしない人だとは聞いていたし、見た時もそんな感じがしたけど……せめて、毎日記帳するくらいの心がけがあってもいいんじゃないですか?」
俺はムカッときた。確かにそれはそうかもしれないが、俺の人生だ。顔も知らないコンドウキョウコにどうのこうの言われる筋合いはない。
とは言うものの、この女の声はなんと言えばいいか、「美人」という連想を強力に従えていたので、俺は、つい、自信のない口調になってしまったのだった。
「はぁ、そうかもしれませんね」
大規模な溜息が再び聞こえてきた。
「とにかく、明日、必ず通帳に記帳してもらってください。明日の晩、またそちらに電話しますから」
そして、そのかすれたような、「美人」を連想させる女の声は、いきなりプープーという間抜けな音に変わってしまった。というか、もちろんその変化の瞬間には、ガッシャンという、機械的・破壊的な音が聞こえたわけだが。
冒頭のシーン。
主人公の<俺>は便利屋。行きつけのバーのマッチを持ち歩き、それを名刺がわりにしている。彼に用事のある人間は、そのバーに電話をかけてコンタクトするのだ。聞き覚えのない女から電話がかかってくるところから物語が始まる。
僕はこの物語の主人公は大泉洋がぴったりだと信じているのだが、それは先の引用を読めば共感してもらえるのではないだろうか。C調で間抜けなところなんてそっくりだと思うのだがどうだろう。
あと、著者・東直己の文章で面白いのは、主人公が理解できない言葉は毎回カタカナで書かれている。意味を理解すると漢字になる。
先の引用では、前後の脈絡なく相手から「通帳」と言われてまごついているのだ。そこがカタカナになっている。銀行の通帳だとわかって漢字に直る。
もちろん、コンドウキョウコにも心当たりがないからカタカナだ。物語が進めば、彼女の漢字表記も明らかになる。