ふらっと入った本屋で、村上龍の短編集『トパーズ』を見つけて購入。表題作を読んだ。
売春婦が嫌いなタイプの男に買われてイヤな気分になったり、仕事の合間にちょっとウキウキするようなことがあったり、なんとなく自分の生き方を変えてみようかと思ってみても、結局は生まれ変わることはできず、それでもちょっとだけ清々しい気分になるという、そんな話。
15年前に一度、立ち読みしかけたことがあるのだが(後述)、その時はあまりに気分が悪くなって読むのをやめた。売春婦が主人公で、いろんな体液でグチョグチョになりながら男に弄ばれたという記述のオンパレードだからだ。当時の僕は、そういう小説を楽しむほどには、円熟した精神を持ち合わせていなかったのだ。
それなりに人生経験を積んできた今では、人生ってのはきれい事だけで片のつくものでもないということも、いろいろな思惑に基づいた堅気以外の商売がありうることも、男女の性的活動が少女マンガのように清潔なものだけではないのだということもわかってきた。そういう精神的涵養(もしくは、厭世的傾向)を得た現在では、「トパーズ」に描かれている人間たちの活動の生臭ささこそが、何よりの醍醐味だと思えてしまった。
「トパーズ」の文体も独特なものだった(他の短編は異なる)。1段落に1センテンスしかないという、特別な書き方をしている。読み始めたときは、句読点でダラダラと長い文章を繋げるばかりの上、1文ごとに段落を変えるとは、なんて酷い駄文なんだと思った。しかし、注意深く紙面を追っていくと、徹頭徹尾その調子だったので、意図的な表現スタイルなのだとわかった。
1段落に一つの長文しかないというスタイルは、つかみどころがなく、読み手を不安にさせる効果があると思った。読み手が文章から感じるその印象は、物語の主人公の心情に合致しているのだと思う。ストーリー内容で主人公に共感させるのではなく、文字の配置の仕方で読者の共感を生み出すという手法だと気づいた。主人公は売春婦であり、一般市民にとっては共感を抱きにくい対象だ。だから、ストーリーからは引き出すのが難しい共感を、文体を用いてサブリミナルに抱かせる手法なのだろう(先日、クイズで出題した原田宗典の「優しくって少しばか」も寝起きのボンヤリした感じを文章で表現しようとする作品)。
過去に一度読むのをやめた本だけれど、今こうして再会できてよかった。
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