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今のところ、ちゃんと動いている様子ですが、何かおかしなことがあったらコメント欄でお知らせいただければ助かるなり。
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もうお気づきのことと思うが、ここ数日、森見登美彦の作品を読みまくっている当方がいる。
『太陽の塔』→『新釈 走れメロス 他四篇』→『夜は短し歩けよ乙女』と流れてきた。
たった今、「夜は短し歩けよ乙女」を読み終えた。
近代文学のような格調高く理路整然とした文体で、実在の京都を舞台に縦横無尽に書き連ねられるバカ話!
今まで、「抱腹絶倒」という言葉を言ったことも書いたこともないし、その言葉の意味するニュアンスもよくわからなかった当方であるが、この書でその意味を心の底から理解した。
そんなことは絶対にないだろうが、京都の四条河原町を歩いていて、色白でベビーフェイスで清楚な見ず知らずの女の子に
「いつも alm-ore 読んでます!サインをお願いします!」
と言われたら、色紙に座右の銘として「抱腹絶倒」と書いてしまうほどの勢いである。
『夜は短し歩けよ乙女』のページをめくる度、肩を揺らし、「くくくっ」と笑い声をもらし、目からは笑い涙がとろとろと流れたほどである。
全301ページの物語、1ページ当たり1mlの笑い涙、もしくは笑ったときに飛び出した唾、腹筋の躍動による汗等が流れたとしたら、全部で296mlの水分を放出した計算になる。
296cc といえば、今朝コンビニで買って飲んだアリナミンVのおよそ4本分弱である。
うっかりの多い生涯を送って来ました。
自分には、注意深い生活というものが、見当つかないのです。
自分は北海道に育ちましたので、アジの開きをはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。
自分はつくばのビジネスホテルの朝食に出てきたアジの開きを、箸でほじくり、食べて、そうしてそれがアジだとは全然気づかず、ただそれはかなり小ぶりなホッケの開きだと思い、ホテルが朝食の材料費をケチり、不当な利益をむさぼるために用意されたオカズなのだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。のちにそれはただ本州ではおなじみのアジの開きだと知り、すこぶる日常的な朝食風景に過ぎないのを発見して、本州出身の女の子に小馬鹿にされました。
(c.f. 太宰治『人間失格』)
森見登美彦「夜は短し歩けよ乙女」より。
「おともだちパンチ」を御存知であろうか。
たとえば手近な人間のほっぺたへ、やむを得ず鉄拳をお見舞いする必要が生じた時、人は拳を堅く握りしめる。その拳をよく見て頂きたい。親指は拳を外側からくるみ込み、いわば他の四本の指を締める金具のごとき役割を果たしている。その親指こそが我らの鉄拳を鉄拳たらしめ、相手のほっぺたと誇りを完膚なきまでに粉砕する。・・・(中略)
しかしここで、いったんその拳を解いて、親指をほかの四本の指でくるみ込むように握りなおしてみよう。こうすると、男っぽいごつごつとした拳が、一転して自身なさげな、まるで招き猫の手のような愛らしさを湛える。こんな拳ではちゃんちゃら可笑しくて、満腔の憎しみを拳にこめることができようはずもない。かくして暴力の連鎖は未然に防がれ、世界に調和がもたらされ、我々は今少しだけ美しきものを保ちえる。
「親指をひっそりと内に隠して、堅く握ろうにも握られない。そのそっとひそませる親指こそが愛なのです」彼女はそう語った。
土用なので、鰻を食す。
注文したメニューは「鰻丼(松)」(1680円)。
竹とか梅とかはもっと高くて豪華だけれど、松。
当方の財布が心許なかったわけでも、今日の人間ドックで「コレステロール値が高い」と言われてちょっと節制したわけでもない。
木公だからであることは、賢明な読者ならすぐに気づくことだろう。
窓からは鴨川と、夏の京都の風物詩である川床が見える。
平日の正午に東寺の南大門に腰かける、なんとなく気だるく、社会人落第な雰囲気。
しかし、風は涼しい。
蝉の大合唱を聞き、鳩が不器用に歩く姿を眺めると、せわしない世間に対する優越感。
しかし、なんか寂しくもある。
背後に不規則な足音を感じて振り返ると、杖をつきながら歩いてくるおばあさん。
「すごい蝉ですねえ」
と、僕の考えを見透かされた。
さすがは、年の功。ばてて、日陰で休んでらっしゃるけど。

もう一度、もう二度、もう三度、太陽の塔のもとへ立ち帰りたまえ。
バスや電車で万博公園に近づくにつれて、何か言葉に尽くせぬ気配が迫ってくるだろう。「ああ、もうすぐ現れる」と思い、心の底で怖がっている自分に気づきはしまいか。そして視界に太陽の塔が現れた途端、自分がちっとも太陽の塔に慣れることができないことに気づくだろう。
「つねに新鮮だ」
そんな優雅な言葉では足りない。つねに異様で、つねに恐ろしく、つねに偉大で、つねに何かがおかしい。何度も訪れるたびに、慣れるどころか、ますます怖くなる。太陽の塔が視界に入ってくるまで待つことが、たまらなく不安になる。その不安が裏切られることはない。いざ見れば、きっと前回より大きな違和感があなたを襲うからだ。太陽の塔は、見るたびに大きくなるだろう。決して小さくはならないのである。(森見登美彦 『太陽の塔』 p.116)
太陽の塔を前にした時に我々が感じる畏敬の念を、これほど見事に捕らえた文章は、僕が知る限り他にはない。
クサくて、プラトニックな恋愛物語の大好きな当方である。
漫画なら「タッチ」や「めぞん一刻」であり、歌謡曲なら「木綿のハンカチーフ」や「Blue Moon Stone」をよく口ずさむし、テレビドラマなら「同級生」とか「男女7人夏物語」を挙げるし、文学作品なら「ノルウェイの森」とか「智恵子抄」だったりするわけである。
そんな当方のお気に入りリストに、「友情」が加えられた夜。
わが愛する天使よ、巴里へ武子と一緒に来い。お前の赤ん坊からの写真を全部おくれ。俺は全世界を失ってもお前を失いたくない。だがお前と一緒に全世界を得れば、万歳、万歳だ。
「友情」 下篇 9章
クサい、クサすぎる。
でも、いい!
ゾクゾクする。