「気の毒だがネタのためだ!」と猛然走行、たちまち、阿部川を渡り切り、読者が油断した隙に、さっさと走って宇津野谷峠を越えた。
一気に藤枝へ向かったが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、木公は幾度となく道を間違い、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ掛川まで走行し、ついに、がくりと自転車を降りた。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。
ああ、あ、箱根を登りきり、大井川も渡った韋駄天、ここまで突破して来た木公よ。真の勇者、木公よ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する読者は、おまえを信じたばかりに、やがてガッカリしなければならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく「無理だ」と言っていた連中の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。
掛川駅前のホテルにごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。
読者よ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、読者。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。読者、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ!
私は急ぎに急いでここまで来たのだ。箱根を突破した。大井川橋も、するりと抜けて一気に川を駈け抜けて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。
ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。
――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
ふとホテルに、爛々、美人なフロント係がいた。そっと頭を上げ、息を呑んで見つめた。すぐ足もとには、黒猫もいるらしい。それらに吸い込まれるように木公は機嫌を直した。ほうと長い溜息が出て、悪夢から覚めたような気がした。走れる。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。
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