「アフタースクール」 (監督・脚本 内田けんじ、主演 大泉洋)

最初は、道産子として大泉洋へのご祝儀のつもりで、深く考えずに「アフタースクール」を見に行った。
しかし、見終わった現在、この映画はマジやばいと思う。大泉洋はじめ役者たちの演技も最高なのだが、脚本がものすごく良い。僕の中では『スティング』(1974年 アカデミー賞作品賞)を見たとき以来の衝撃のシナリオ。
みなさん、必見ですよ。

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『ニシノユキヒコの恋と冒険』川上弘美

タイトルが示すとおり、ニシノヒキヒコという男性の一生をとりあげ、彼にはどんな女性遍歴があり、彼の生い立ちのトラウマが何かということが語られる小説。
ただし、10の小編に分かれていて、それぞれ狂言回しが異なっている。各物語には、ニシノ氏と付き合った別々の女性が登場し、彼女らの視点からニシノ氏がどんな人物であったかが語られるというスタイルになっている。

このニシノユキヒコという人物、僕には結局つかみ所がなくて、なんだかよくわからない男だった。
しかし、「つかみ所がない」というのは多分間違った印象ではなくて、彼と交際のあった女性たちにとってもニシノ氏はとてもつかみ所のない男であったようだ。
けれども、そのつかみ所のなさが、女の子のハートをがっちりと掴んで離さないみたいだけれど。さらに、彼女らの独白によれば、ニシノ氏はハンサムで優しい紳士で、仕事もできるエリートっぽい落ち着いた男性らしい。これだけでずいぶんと女心をくすぐるんだろうけれど、女性の懐に入る甘え上手な上に、セックスも上手いらしいよ。その反面、どこか幸薄そうな影をたたえていて、そのミステリアスさが一層女の子を虜にするらしい。
もう非の打ち所がないですな。僕もあやかりたいくらいだ。

しかし、その完璧さが、女性にとってはちょっと重荷に思えてしまうことがあるらしい。
そんなわけで、ニシノ氏はいつも女性から一方的に捨てられるという悲しい目にあう。
#実際には、そのタネを自分でまいている(浮気性)ということも、コミカルに書かれてるけど。

ここまでニシノ氏をちょっと美化して書いたけれど、見る人が見れば、”だめんず” 何だと思う。
あんな男が世の中にいて、女性を独占していたら悔しいから、僕もニシノ氏をとりあえず「プレイボーイのダメ男」となじっておくことにする。

ただ、こんなことを書いてしまっては、女性の皆さんから抗議の声が上がるかもしれないけれど、女の子だってダメ男に惹かれてしまう気持ちってどこかにあるよね。
ちょっとキケンな臭いのする男に惹かれる気持ち。

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『古道具 中野商店』川上弘美

当blogでもずいぶんとたくさん読書感想文を書き散らしてきたけれど、川上弘美の『センセイの鞄』は印象に残っている小説のひとつであるし、その感想文を書いたときのこともよく覚えているし、実はその時の記事にまつわる後日談も僕にとっては忘れがたいものなのである。

そんなわけで、川上弘美は当方が無条件に追いかける作家の一人である。
無条件に追いかけているだけあって、たまにハズレもある。
『パレード』とか。大好きな『センセイの鞄』のプチ続編という位置づけなのだが、そのシマリのなさに僕はちょっとガッカリした。
むしろ、最近は、「もう川上弘美と決別しようかなぁ」とか思っていた次第。

そんな中、試金石として『古道具 中野商店』を読んでみた。
これを読んで、つまらなかったら、もう川上弘美を買うのはやめよう、と。

結論を言えば、『古道具 中野商店』は面白かった。かなり僕好みのお話だった。
これからも川上弘美を追いかけようと思う。
#実際、今日は本屋で『ニシノユキヒコの恋と冒険』を買ってきた。

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『孤独のグルメ』 久住昌之・谷口ジロー

ひとりで飯を食う男の孤高のダンディズム。
最初はウケ狙い漫画かと思って読み始めたけれど、深いテーマを持ってる。
密かに売れてる理由もよく分かる。

主人公の井之頭五郎は個人で輸入雑貨の貿易商を営んでいる。
ただし、店舗は構えていない。

結婚同様 店なんかヘタにもつと
守るものが増えそうで人生が重たくなる
男は基本的に体ひとつでいたい

『孤独のグルメ』p.17

その言葉どおり、中年に差し掛かっている彼は独身。
絵柄を見る限り、割とハンサムだし、身なりも良いし、言動も紳士的。
留学生のバイトを理不尽なまでに怒鳴り散らす店主に対して、堪忍袋の緒を引きちぎる正義感も持ってる。

そんな主人公が、大都会をさまよい歩き、グルメ本には絶対のならないような大衆食堂に立ち寄る。
そして、孤独に飯を食う。

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ゴッドファーザー

見た。

3時間弱もある映画にもかかわらず、途中どうしても用を足したくなって一時停止してトイレに行ったこと以外、一時も目を離さずにきゅーっと全神経を集中させて見た。

近年の映画に比べれば、とってもシンプルで短いエンディングロールが、例の有名なテーマ曲とともに終わったとき、ふーっと大きなため息が出た。
全身の緊張が一気に弛緩した。
どうやら強くこぶしを握りすぎたらしく、手のひらを開けて見ると点々と爪の痕がついていた。

この映画を見るきっかけは、当blogのこの記事に因る。
原田宗典の映画エッセイ『私は好奇心の強いゴッドファーザー』を読んで、映画「ゴッドファーザー」に興味が惹かれたからである。

そのときの記事では、「ゴッドファーザーは、シミジミとした感情が沸き起こるらしい」てなことを書いていたが、実際に見てみたところでは、そんな気持ちのいいもんじゃなかった。
僕が見ていて感じたことは、メンツや権力欲に駆られて生きることのバカバカしさだ。

長い映画だし、たくさんの登場人物(とその思惑)が錯綜するので、見る人やその時の気分で大きく印象が変わる映画なんだろうと思った。
原田宗典が「シミジミした」というのも正しい側面なんだろうし、僕のように「バカバカしい」というのも別の視点からは正しいのだろう、きっと。

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車を走らせた、なぜなら「殯の森」を見たから。

現代社会では、何をするにも正当な理由が求められるようだ。
なんとも生きにくい。

なんとなく手持ち無沙汰で夜の住宅地を散歩したくなっても、「こう暑くちゃ、なかなか寝付けないから、夜風に当たろうと思って。」などと自己弁護しないと、善良な市民にお巡りさんを呼ばれてしまったり。
映画『細雪』で古手川祐子(若い頃)の入浴シーンを下衆な動機で見たいだけなのに、「いや、谷崎の名作がどのように映像化されているかこの目で確かめたい。」と芸術愛好家を気取った台詞を吐いてみたり。
ただなんとなくムラムラしても、「君の事を愛してるんだ、誰よりも。」なーんて、それらしいことを言わないとエッチできなかったり。

そういう、日常の些事ならまだいいが、場合によっては
「自分の生きている意味はなんだろう?」
なんて、別に考えないでもいいようなことまで真剣に思い悩んでしまって、鬱々させられてしまったり。

あるむおそらく、うちの飼い猫のあるにゃんに生きている意味が特にないのと同じように、現代人の一人一人が生きている明確な意味なんて、きっとないだろうに。
何をそんなに思い悩むのか。

さて、我が家にはクーラーがない。
ゆえに、今日のような天気のいい夏の日は、とても暑い。
ガソリンが高騰していようが、二酸化炭素を排出してさらなる地球温暖化へ貢献しようが、我が愛機のシャア専用CYPHAを駆って、車内エアコンをバリバリに効かせて涼むのが気持ちいい。

単に自宅の駐車場に車を停めたまま、エンジンを動かしてクーラーで涼んでも、当方の目的は完璧に果たせるわけだが。
しかし、現代社会では、そのような一見正当な理由の無い行動を許してくれるような懐の深さは無いようである。

そこで、車を運転して、どっかに行くことにした。
どうせ行くなら、ちょっとでも涼を求めるべく、山を登ってみることにした。
木々のうっそうと生える山道なら、直射日光を避けることもできて、多少は涼しいはずだ。

しかし、やはりそれでは、ドライブに出かける理由になりにくいようである。
そこで、僕は誰に対してでもなく、言い訳をした。

「河瀨直美監督の『殯の森』を見たんだ。茶畑の風景がきれいだった。同じ風景を見に行きたくなったんだ。」

それが、今日の自分の行動の正当化だ。

奈良市田原町の茶畑

映画のロケ地そのものを見つけることはできなかったが、確かに奈良市田原町のあたりにたくさんの茶畑があった。
日は照っていたが、標高が高いおかげで風は涼しかった。

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「太陽の塔」(森見登美彦)

太陽の塔

もう一度、もう二度、もう三度、太陽の塔のもとへ立ち帰りたまえ。
バスや電車で万博公園に近づくにつれて、何か言葉に尽くせぬ気配が迫ってくるだろう。「ああ、もうすぐ現れる」と思い、心の底で怖がっている自分に気づきはしまいか。そして視界に太陽の塔が現れた途端、自分がちっとも太陽の塔に慣れることができないことに気づくだろう。
「つねに新鮮だ」
そんな優雅な言葉では足りない。つねに異様で、つねに恐ろしく、つねに偉大で、つねに何かがおかしい。何度も訪れるたびに、慣れるどころか、ますます怖くなる。太陽の塔が視界に入ってくるまで待つことが、たまらなく不安になる。その不安が裏切られることはない。いざ見れば、きっと前回より大きな違和感があなたを襲うからだ。太陽の塔は、見るたびに大きくなるだろう。決して小さくはならないのである。

(森見登美彦 『太陽の塔』 p.116)

太陽の塔を前にした時に我々が感じる畏敬の念を、これほど見事に捕らえた文章は、僕が知る限り他にはない。

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